※鳳宍に娘が産まれています。
白い砂浜を踏みしめる。潮風と照り付ける太陽を肌で感じて、波の音を聞いた。長太郎が波打ち際まで俺の手を引く。笑顔。打ち寄せる波。つま先が、濡れる。
「おとうさん! おきて!」
「んあ?」
毛布ごと上半身を拘束される窮屈さに続いて、甲高い声が俺を呼んだ。
瞬間、波の音は途切れ、見慣れた天井が白く広がる。
重みは俺の体の上でせわしなく動き、腹を圧迫してきた。
夢から覚醒するには十分すぎるめざましだ。
「待て待て、わかった、おはようするから」
両腕を広げると、黒髪をポニーテールにした愛らしい笑顔が体当たりするように抱きついてきた。
「おはよー!」
「おはよう」
抱きしめた小さな体は毛布の中よりもずっと温かい。
勢いをつけて起き上がり膝に乗せると、くりくりした丸い瞳が俺を見上げた。
「日曜なのに早起きさんだな」
「きょう、ゆうえんちいくひだよ」
「あ、そうだった」
「お父さんが一番お寝坊さんでしたね」
とっくに起きていたらしい長太郎が、ピンクのエプロンをして部屋の入口に立っている。
開いたドアからスープの香りが漂ってきた。朝食を作っている途中だったようだ。
「もう準備万端だもんねー」
「ねー!」
ベッドを飛び降りて長太郎の膝にしがみついた俺たちの娘は、先月四歳になったばかりだ。
腰をかがめた長太郎が両手を掲げると、小さな手がぺちんとハイタッチした。
俺の妊娠がわかったとき、男二人で子どもを育てるのは大変だろうといろんな人に心配された。産まれたあとも、女の子の扱いは難しい云々。でも、俺と違い長太郎の感性が繊細だったおかげでそれは杞憂に終わった。
そりゃあ、はじめの頃は二人で四苦八苦して、子育てって体力勝負だななんて言い合っていたけれど、驚くほどあっという間に大きくなってしまったら少し余裕もでてきて、日々の成長がどんどん楽しみになっていく。
特に長太郎ははりきっていて、俺が知らないうちにいろいろな技術を磨いてきた。
可愛らしく彩を添えた食事。フェルトで手作りしたおままごとセット。季節の行事があると部屋を華やかに飾り付け、服の手直しだって難なくこなす。
最近は、髪を結ばれることを嫌がらなくなってきた娘のために、編み込みを習得しようと猛特訓中だ。
「あっ!」
リビングから聞こえてきたアニメのオープニング曲で、小さな体は脱兎のごとく駆け出した。
お気に入りのアニメだ。今頃ソファーの上にちょこんと座り、透けそうに澄んだ瞳を輝かせて観ていることだろう。
「足、はえぇな」
「お父さんに似たんですかね」
ベッドから出て伸びをした俺を、長太郎が抱き寄せた。
「おはようございます」
「ん」
寄せ合う唇が温かい。
「朝ごはんの用意をしてたんです」
長太郎が俺のひたいに口づける。
「あの子、今日はゆで卵の殻を剥くお手伝いをしてくれました」
「うまくできた?」
頬にキスを返したら、長太郎はふんわり微笑んだ。
「ちょっと崩れちゃったんで、玉子サンドにしようかなって」
「はは」
もう一度キスを交わして部屋を出た。
顔を洗ってからキッチンに向かうと、長太郎がホットサンドメーカーにパンと玉子の具をセットしている。
「今日って暑いかな」
「暑いって天気予報で言ってました。でも夜は寒くなるみたいですよ」
「じゃあ、ちびの上着も持ってかねぇとな」
「さっき自分でカーディガン選んでましたよ。今日はおめかしするんですって」
「へぇ」
リビングを見やると、案の定ソファーの真ん中にちょこんと座って画面を食い入るように見つめている。子どもの集中力と記憶力はすごいもので、まんじりともせずに見入っては、何日も経ってから突然キャラクターのセリフを一字一句違わずに言ってみせたりするのだ。
テレビに釘付けになっている間に長太郎を手伝おう。
キッチンに入り、冷蔵庫からレタスを取り出してシンクに立った。サラダを作るために、葉を洗ってちぎる。コンロわきにあるボウルを見ると、先に長太郎が茹でておいたブロッコリーがあったので小さな口でも食べやすいように切り分けた。後で一緒にサラダに盛り付けよう。
パンと玉子をセットし終えた長太郎が、知らぬ間に俺の背後にまわってそっとうなじに口づけた。
くすぐったさに笑みが漏れる。
「そろそろ次のヒートの時期ですね」
「そうだった。また実家に預かってもらわねぇと」
ヒートの期間は家事もままならないので、俺か長太郎の実家でこの子を預かってもらうことにしている。
「そういえば、弟が欲しいって言われました」
「は?」
驚いて振り向くと、そんな俺に驚いた長太郎が目を丸くしていた。
「びっくりしたぁ」
「いや、こっちがびっくりしたぜ。弟? ちびが言ったのか?」
「保育園のお友達がね、その子の弟にミルクを飲ませてあげたって話してたんですって。羨ましかったのかな。迎えに行ったら、うちに着くまでずっと「私もお姉ちゃんになりたい!」って」
「なるほどな。うーん。男か女かはともかく、二人目かー。まぁ、考えてもいいタイミングではあるよな」
「でも……」
長太郎にうしろから抱きしめられる。大きな手のひらが俺の腹を撫でた。
Ωとαの性交における受精率は他のバースに比べて飛びぬけて高い。そのため、ヒート時であっても避妊具や緊急避妊薬を手放せない。加えてΩが男体である場合、出産におけるリスクも高かった。長太郎がしぶるのはこのためだ。女体とは違い、子宮の位置も骨盤の形も妊娠に特化しているというわけではない。自然分娩は不可能だし、産後の回復も遅い。俺の妊娠中、何も出来ないことが悔しいと、あいつは俺を抱きしめてさめざめ泣いた。そんなことはない、俺は大丈夫、と強がってはみたけれど、つわりはひどいし家事も満足にできないし、更には長太郎を気遣う余裕もなくなって、無力さで自己嫌悪に陥りそうになった。でもそんなとき、長太郎は「のんびりいきましょう」と涙をこらえながら言った。本当は自分だってどうしたらいいかわからなくて不安だろうに、それでもあいつは一緒に乗り越えようとヘタクソに笑って見せた。そのおかげで俺も泣くことができたのだ。
俺は誰とも番うことなく一生を終えるものだと思っていた。でも今は、娘が産まれて、こうやって三人暮らせる毎日がなによりも愛おしい。もしもここにもう一人増えたら。大変なこともあるけれど、きっと、もっと楽しくなるに違いないと思った。
「パパぁ、テレビおわったぁ」
長太郎を呼ぶ声で、俺たちはリビングに目を向けた。二人とも父親だから、俺はおとうさん、長太郎はパパと呼ばれている。
ソファーに乗っかったおてんば娘は、背もたれに両手をついてトランポリンのようにぴょんぴょん飛び跳ねた。
「もぉ~、お行儀悪いでしょ!」
「いいよ、俺が行く」
レタスを盛り付けたサラダボウルを長太郎にバトンタッチしてリビングに向かう。
ソファーに近づくと、猫みたいに俊敏な動きで背もたれの影に隠れられてしまった。だから俺もソファーの裏側にしゃがみこみ、背もたれを挟んで話しかけた。
「かくれんぼしてんの?」
「してないよ」
「そうなの?」
「うん」
上から声が降ってきた。見上げれば、背もたれから目から上だけを覗かせてこちらを見ている。真似をしてモグラたたきみたいに顔を出したら、丸いおでこをコツンと合わせられた。
「おとうさん、おねつないね」
「元気だからね」
「えへへ」
眉尻を下げて、少し肩をすくめて、淡い色の花がふわっと咲くように、この子は笑う。
まったく、笑い方が長太郎にそっくりなのだ。それに気付いたときは驚きを通り越して大いに感動してしまったほどだ。
「ごはんの前にさ、お願いしたいことがあるんだけど」
「なぁに?」
「お父さんのデザイナーさんやってほしいなぁ」
「やる!」
ソファーの上で勢いよく立ち上がった体を抱き上げる。
小さな腕を精一杯俺の首に回してぎゅうっと抱きつく体温がぬくい。どうしてこんなに、全身全霊で、疑いようのない信頼で、俺にその小さな体を預けてくれるんだろう。嬉しいとか、楽しいとか、大好きとか、体いっぱい惜しげなくつかって感情を伝えてくる愛らしさよ。これ以上ないくらいに胸が温かくなって、思わず抱きしめたまま体をゆすったら、きゃあと声を上げて楽しそうに笑った。
「先に着替えてくる」
「朝ごはん、並べておきますね」
子育てはときどき分業制。俺たちはキッチンを通り過ぎて寝室に向かった。
フローリングに下ろしてクローゼットを開ける。小さな手のひらが吊るしてあるジャケットの裾を引っ張った。
デザイナーさんとは、彼女に俺が着る服を選んでもらうこと。最近おしゃれに興味を持ち始めたようで、人形やぬいぐるみの着せ替えでは飽き足らず、俺と長太郎が着る服も選びたがるのだ。デザイナーというよりはスタイリストの方が正しいのだが、服に関する仕事はみんなデザイナーだと思いこんでいるらしい。
親ばかである自覚はあるが、センスは悪くないと思う。
今日はどんな服を着せられるのか。真剣に選んでいる後ろ姿はなかなか頼もしい。
「これ!」
「ん? このパーカー?」
「うん。パパも、ぼうしついてたからおそろい」
「そっか、今日似たやつ着てたもんな」
俺たちに「おそろい」をさせたいらしい。正確には、同じような形の服って言うだけで色もブランドも違うのだが、この子にとってはそれでも「おそろい」になるようだ。ただ、俺たちが「おそろい」になると、決まって自分も同じものを着たいと言い出すのだけれど、まぁ、そのときは着替えさせればいいだけの話だ。
ジーンズとTシャツも選んでもらって、見守られながら寝巻のスウェットを上下とも脱いだ。
着替えのTシャツを手に取ったところで、小さな手に下着を引っ張られた。
「ん?」
膝立ちになって目線を合わせると、ペタンと座り込んでしまう。
そして俺のボクサーパンツのゴムをずり下げて、下腹の傷痕を指で優しくなぞった。
この子を産んだときの傷だ。
一緒に風呂に入るときなんかはよく触ってくる。他の肌とは違う触り心地が気になるのかもしれない。この子の癖みたいなものだ。
「いたい?」
「痛くないよ」
「パパにはないよ?」
「そうだな、パパにはないな」
俺の傷を触るときは決まって、唇を尖らせて何かを考えている。
好きなだけ指先でなぞったあとは、傷全体を温めるように手のひらをぺたっとくっつけた。
「おてて、あったかい?」
「うん。あったかいよ」
「よし」
彼女の中で何かの儀式が終わったらしい。
すでに興味は傷痕から「デザイナー」の仕事に移ったみたいだ。立ち上がってジーンズを広げ始めたので、長太郎の作ったホットサンドが覚めないように急ピッチで着替えることにした。
全部着替え終えて小さなデザイナーのチェックを受け、キッチンに戻ると長太郎がスープをよそっているところだった。
「わぁ、かっこよく出来たね」
「ふふ」
俺の格好を見た長太郎に褒められて、嬉しそうにしながらダイニングテーブルに走っていく。
本当によく動く。太陽みたいにエネルギーのかたまりなんじゃないかと思うくらい元気いっぱいだ。
その後ろについて行って子ども椅子に座らせ、同じく隣の席に腰掛けた。
「のどかわいた」
「お茶飲もうか」
あらかじめ長太郎がテーブルの上にポットを用意してくれていた。中身は麦茶。テーブルにつくと必ずどちらかがそばにいないといけないから、こういった工夫が肝心なのだ。
キャラクターの描かれたプラスチックのコップに半分注いで渡すと、きちんと両手で受け取って小さな口でごくごく飲んだ。
「はーい、お手伝いしてくれた玉子のホットサンドだよ」
長太郎が大皿を持ってきた。サラダはもうテーブルの上にあったので、入れ替わりにスープを取りにいく。
「サンドイッチだから、おてて拭こうね」
「はーい」
スープカップを持ってきて並べている間、長太郎はおしぼりで小さな手を拭いていた。
おりこうさんは両手をパーに開いて、拭かれているところをじっと見ている。
テーブルの上のホットサンドは食べやすいように切って盛り付けられ、サラダには星型に切ったハムが散らされていた。
「はい、出来た」
三人の準備が整ったところで、全員そろって手を合わせた。
「「「いただきます」」」
小さな手には、切ったホットサンドが大きく見える。
ほっぺたいっぱいに頬張って、おいしいね、と長太郎と顔を見合せてにっこり笑った。
そして二人、そっくりな笑顔を俺に向けて、幸せをおすそ分けしてくれた。
玉子がちょっと、甘くなった気がした。