目覚めたときから微熱があり、学校を休むほどでもないからと家を出たはいいものの、動くたびに体の感覚に違和感があった。
首元が苦しい。ネクタイを緩めても、シャツの襟ぐりがうなじや首筋に触れるだけで息苦しく感じる。衣服の布地は胸元やわき腹、膝や脛、動作のたびに擦れ肌をざわめかせた。痛いのとも、くすぐったいのとも違う。制服に体の自由を奪われているようでイライラする。内臓がぞわぞわ浮足立つようで落ち着かない。
だが宍戸にはこの感覚に覚えがあった。
「…チッ」
歩みを止めた宍戸は舌打ちし、鞄からスマートフォンを取り出した。苛立つ指先で二通メールを打つ。
ひとつは幼馴染であり同じくテニス部レギュラーの向日に送る。今日の部活はダブルスで自主練するから参加しない旨を簡潔に伝える内容だ。
そしてもうひとつは、ダブルスパートナーであり恋人でもある鳳長太郎に。
(俺がこうなってるってことはあいつも、だな)
はぁ、とため息を吐いた。
ざわつく下腹と皮膚の感触を出来るだけ意識しないようにして再び歩き出す。もうすぐ氷帝学園の校門が見えてくるころだ。宍戸はもう一度、はぁ、とため息を吐いた。この状態のまま、これから授業を受けなくてはいけないのが億劫で仕方なかった。
二人には秘密がある。
あれは宍戸と鳳が、ダブルスパートナーの粋を超え恋愛的な意味でお付き合いを始めた頃だった。
自主練をしようということになり、夕食後に近所の河川敷コートに集まり打ちあいをしていた。コートを照らすライトはそれほど質のいいものではなかったが、その日は雲一つない星空にぽっかり満月が浮かんでいて、月明かりだけでも十分練習できるほど明るかった。
打ちあいを始めてから数分経った頃、体の違和感に気付いたのは二人同時だった。ラケットを握る手に力が入らない。おかしいと感じ、目線を自身の手のひらからネットを挟んだ相手に移した時だった。
宍戸が鳳を、鳳が宍戸を、見ていた。
驚愕と不安と、そして情欲を湛えた瞳がぶつかりあった。
それから先のことは正直なところあまり覚えていない。
気が付いたらコート脇の公衆トイレの中で、便座に座った鳳が宍戸を向かい合わせに跨がせ、互いの性器をくっつけて扱いていた。宍戸のハーフパンツは脱げて右足首に引っかかったまま時折揺れ、脱いで丸まった二枚のTシャツがタイル床に重なって落ちていた。
全力疾走したあとみたいに汗だくでうまく呼吸ができなくて、鳳の首に縋りつく宍戸は何度もその首筋に歯を立てたし、鳳の手は二人分の精液にまみれ動きを止めることはなかった。
『ししど、さん…なんで、俺たち、こんなこと…』
『わ、っかんね、…あっ』
いくら射精してもおさまることの無い性欲が底なし沼のようで、怖くなった鳳はついに泣き出してしまった。
『うっ、うぅ…』
『泣くな、よ、ちょうたろ…俺も、泣けてくる、っ、だろ』
『え?』
『うぅ~…』
腕の中の宍戸がすすり泣き出し始めたことにびっくりした鳳は、ようやっと性器を扱く手を止めることが出来た。
『宍戸さん!? なんで泣いてるんですか!』
『知らねぇよ。なんでかわかんねぇけど、おまえが泣いたら俺も泣きたくなった』
縋りついていた宍戸の腕をはがし、ズズっと鼻をすする顔を覗き込むと双眸から涙をぽろぽろとこぼしている。恋人である以前に尊敬する先輩である宍戸がこんな風に涙を流す姿を見たことが無かった鳳にとってそれは一大事で、そうさせてしまったことが情けなくて、パニックとやるせなさでもっと泣けてきてしまった。するとどうだろう、鳳の涙と比例して宍戸の涙も増えてきたではないか。どうにかして止めたくて、鳳は宍戸の腰を抱き頬に流れる涙を懸命に舐めた。泣きながらたくさんキスをして背を撫でた。手についた精液が宍戸の背を汚してしまったが構っていられない程に必死だった。それでも宍戸の涙は止まらない。それがつらくて悲しくて、ついに鳳は声を上げて泣き始めてしまった。
『うぇぇ…じじどざ、ん…ごめ、なざ』
『待て、長太郎。落ち着け、な? 頼むからもう泣くな』
『だってぇ~、うぅ…おれ、うわーん』
『大丈夫、大丈夫だから。俺、別になにも悲しくないんだって!』
『…ふぇ?』
『なんにも泣きたい理由ないんだって!だけど、なんかお前が泣いてると、悲しくないのに悲しいっつーか、泣けてくるっつーか…なんだこれ?』
頭を撫でてなだめてくれる宍戸の不思議そうな顔を見て、鳳は少しずつ冷静さを取り戻していった。宍戸の感情が伝染したかのように、とても不思議な気持ちになってくる。悲しい気持ちが消え涙が止まると、宍戸の涙もぴたりと止まった。
『なんだか俺、今すごく不思議な気持ちです』
『俺もだよ』
『俺が悲しいと宍戸さんも悲しくて、俺の涙が止まると宍戸さんの涙も…止まった?』
『…』
宍戸が眉間に皺を寄せる。
何かがおかしい。そもそも鳳とは付き合って日が浅く、キスこそしたことはあるものの、それ以上のことはまだしたことがなかったのだ。それなのに夜の公衆トイレとは言え誰が来るかもわからない公共の場で、ほぼ全裸の状態で精を吐き出し合っているという状況は異常過ぎる。
おかしなことは他にもあった。自分の感情のほかに、他人の、鳳の感情が流れ込んでくるようなこの感覚。さっきは鳳がどのように悲しいのか手に取るようにわかって涙がこぼれてきた。こんなこと、現実でありえるのだろうか。加えて二重にも感じられる体の感覚。有り体に言えばイった感覚がいつもの倍気持ちいいのだ。まるで自分が感じている快感以外の快感も付け加えられたみたいな体感だ。
説明できないことが自分たちの身に降りかかっている。これが一体何なのか、宍戸は結論を出す前に実験をしてみることにした。
『なぁ、長太郎。今からあることを言うからどう思ったか口にしないで黙ったままでいてくれ』
『え? 黙ったまま? はい、わかりました…?』
『おまえのことが大嫌いだ』
『!?!?』
『…わかった。次行くぞ。おまえのこと、だ、大好きだ』
『!!!!!!』
『……わかった、わかったから、悪かったって。もう喋っていいぞ』
『な、なんでそんなこというんですか!? 嫌いなんですか俺の事!? でも大好きなんですか!? なんなんですか!? 宍戸さん本当はどっちなんですか!?』
『ごめんな、ちょっと実験してみたんだ』
『実験、ですか?』
『ああ。今の、俺にも同じこと言ってみてくれねぇか。そんでどんな気持ちになるか教えてくれ』
『え…同じこと? 宍戸さんの事…大嫌いです…?』
『…』
『えっ、あれ? なんか、すごくつらい気持ちに…これ、あれ?』
『長太郎、もう一個の方は?』
『えっと、宍戸さんの事大好きです!』
『…』
『わっ、なにこれ! さっきまで苦しかったのになんだかむず痒い気持ちです』
『それ、俺の気持ち、だと思う』
『へ?』
鳳に大嫌いだと告げたとき、ものすごい絶望と落胆を感じた。大好きだと告げたときに感じたのは、先ほどの絶望がひっくり返された混乱とそれを勝る大きな喜び。これらは鳳から流れ込んできた感情であると言えるだろう。そして鳳から告げられたときに彼に流れていった自分の感情も、気恥ずかしいが当たっている。つまり互いの感情がわかるようになっているようだ。摩訶不思議な事象であることは重々承知しているが、身をもって証明してしまったので信じるしかない。そう結論づけた宍戸には、もう一つ証明しなければならないことが残っていた。
『なぁ、もう一つ実験付き合ってくれるか』
『はい! 俺、どこまでも宍戸さんについていくって決めてますから』
『そうか…』
宍戸は鳳の陰茎を見下ろした。先ほどまでは理性を失い意識が朦朧としていたので気にする余裕など無かったのだが、改めて目にするとなかなかどうして、顔に似合わずえげつないものを持っている。体格差からして予想はしていたが、自分のそれより明らかに大きい。
『あの、そんなに見られると、ちょっと…』
『え? あ、あぁ、わりぃな』
意を決して両手で鳳の陰茎を包み込む。ゆるゆると上下に扱くと熱い塊は更に質量を増した。吐き出したままだった精液が潤滑油の役割を果たして滑りがいい。何度も何度も、ぐちゅぐちゅ音を鳴らして扱いていると、カリ首が膨らんで亀頭がパンパンに腫れてきた。
『気持ち、い』
『気持ち…え? 宍戸さん?』
先に言葉を発したのは、刺激されている鳳ではなく、宍戸の方だった。
自分の陰茎を握る宍戸の両手を見つめていた鳳はその声に驚きパッと顔を上げた。そして再び驚いた。そこには頬を上気させ、瞳を潤ませ、半開きの唇から浅く息を吐き出す宍戸がいたからだ。
『っ…、宍戸さん? どうしたんですか』
『おまえ、気持ちいい…か?』
『はい…あの、もう、出ちゃいそうです…』
『はは…だろうな、っ…、すげぇ、えろい顔してる』
『それは、宍戸さんでしょ、っ、あ、もう…』
『うん…出していいぞ』
ぎゅっとまぶたを閉じて鳳は射精した。宍戸が掌で精液を受け止める。狭い個室に再び青臭さが充満した。
とす、と肩に重みを感じて鳳は目を開けた。倒れ込んできた宍戸に額を押し当てられている。その背がビクビクと断続的に揺れるのを、なぜだろうと働かない頭で考えながらぼーっとしていると、呼吸を整えた宍戸がゆっくりと体を起こした。その腹には白濁が散っていた。
『あ、すみません。俺の飛んじゃいました』
『……違う。これはお前のじゃない』
『え?』
『俺が、出したやつ』
『いや、でも俺宍戸さんの触ってないし、宍戸さんは両手で俺の、その、握ってましたよね?』
『…長太郎。信じられねぇかもしれねぇが、今の俺たちは感情も感覚も同じになっちまってる』
『感情も、感覚も…?』
『俺は一切自分のを触ってなかった。おまえのチンコこすってただけだ。なのにイっちまった。触ってないのに触られてるみたいに気持ちよくて出したくなって、それで』
『ちょ、ちょっと待ってください! 二人が同じように……? それって俺たちシンクロしてるってことですか?』
『シンクロ…いや、シンクロ…なのか?』
『シンクロ…って、こういう風に発動するものなんですか…?』
『ちょっと…信じたくはねぇな…』
その後は逆に鳳が宍戸の性器を刺激して同じく感じるか試したり、体の至る所を触り合って、どう触って欲しいか口にせずに通じるか試してみたりした。そのことごとくが宍戸の仮説を証明するものでしかなく、二人はこの事実といつまで経っても収まらない欲情を受け入れることにしたのだ。吹っ切れてしまうと頭で考えるのも馬鹿らしくなって、そして体力だけは有り余っているので、思う存分性欲を満たすことに専念したのである。
結局それは月が沈むまで続いた。東の空に朝日が昇り始めるとそれまでの煮えたぎった欲望は鳴りを潜め、そしてお互いの感情も感覚も分からなくなっていた。
『一体なんだったんでしょう?』
『なんだったんだろうな』
軽く打ちあいをして解散するつもりだった二人は着替えを持ってきているはずもなく、ところどころ精液がこびりついたTシャツと短パンで家路についた。家族が眠っている間に洗濯してしまいたい。無断外泊を叱られるだろうが理由を説明できるわけがないので大人しく謝るしかないだろう。
『でも、ほんの少しの間でしたけど、宍戸さんと気持ちが通じあえて、俺は嬉しかったです』
『…別に、今までだって好きだって気持ちは通じてただろ』
『宍戸さん…!!』
しかし、その後も性欲の昂ぶりと共に二人の感情と感覚が一体化する現象は一定の周期、満月の日に訪れることになる。
三回目の満月の夜には宍戸が受け入れる形で二人は体を繋げ、シンクロの度合いはより一層高まった。満月の日は昼間でもお互いに感覚が鋭くなり、夜になれば言わずもがな、片時も離れることなく体を重ねるようになったのだ。
今日は、その満月の日だった。
放課後になるやいなや教室を飛び出した宍戸は、出来得る限りの全速力をもって下駄箱に直行した。全速力、と言ったがその足取りは決して軽くはない。皮膚を擦る布地が不快で仕様がないのだ。走ることも出来ず、しかし一刻も早く校舎を出たい宍戸は苦々しく舌打ちした。すれ違う同級生が怪訝そうに振り返るが気にしていられない。朝に比べて随分と触覚が鋭敏になっており衣服をまとっていること自体がもどかしく、かといってこんな公衆の面前で脱ぎ散らかすことなどできようはずもなく、我慢と焦燥が宍戸に疲労感を募らせた。
下駄箱に到着し靴を履き替えていると、開け放たれたガラス戸の外から聞きなれた足音が近づいてくる。待ちわびた瞬間だ。まだ履き替えていなかった片方の靴に足を突っ込み、鞄を引っ掴んで外に出た。踵の部分が少し潰れたままだが気にならないほど気持ちが急いた。
「宍戸さぁん!」
「長太郎!」
「「会いたかった!」です!」
二年生の下駄箱から外を回って迎えにきた鳳に勢いよくハイタッチする。ビリビリと背筋が震えた。お互いがお互いに会いたかった気持ちが、手に取るようにわかる。今すぐ抱きしめてしまいたいくらいに高揚した。
「はー、やっと帰れる。おまえんち、今夜大丈夫なんだよな?」
「はい! 朝、宍戸さんにメールもらってすぐ確認しました。両親は出張中ですし、姉は友達の家に行くって言ってました」
「わりぃな。でも助かったぜ」
「いえ、これは俺たち二人の問題ですから」
校門を出て、鳳の家に向かう道をふわふわした心地で歩く。
「今日は朝から宍戸さんに会いたくてたまりませんでした」
「俺も」
「ふふ、満月の日は素直ですよね」
「隠してもしょうがねぇからな。全部おまえにバレてるし」
「はい、宍戸さんの気持ち、分かってます。嬉しいです」
幸せを甘く溶かしたような感情が流れ込んでくる。鳳に満面の笑みを向けられて、宍戸の頬も自然と緩んだ。
朝から感じていた苛立ちはすっかり消え、安堵で心が凪いだ。
それからしばらく無言で歩いた。
何も言わなくても分かり合えたからだ。
楽しい、恋しい、触りたい、大事にしたい、離したくない、側にいたい。
まっすぐで純粋な愛しさだけがお互いに流れ込んでくる。同じ気持ちでいられることが幸せで、分かり合えることが嬉しくて、叫び出したいような、ぐっと噛み締めてうずくまりたいような、満月の日にはいつもこんな気持ちになる。
好きだという気持ちがこれほどまでに強大なエネルギーに満ちたものだということを、二人は共鳴し合うようになって初めて知った。
「俺、宍戸さんとこうなってから、部活中とか、意見が合わなくて言い合いすることが怖くなくなりました」
「ずけずけ言うようになったよな、おまえ」
「喧嘩みたいになって気まずくなっても、根っこの気持ちは俺たち同じなんだって信じられるようになったからかな」
「…」
「照れましたね? そういうところ、好きだなぁって思います」
「わざわざ言わなくていい」
「言葉にすることだって、大事な愛情表現ですよ。それに気持ちはわかっても、考えていることまで全部わかるわけではないですから」
「…。 ほら、おまえんち着いたぞ」
「えへへ。はい、鍵開けますね」
鳳に続いて家に上がる。靴を揃える時に形がひしゃげた踵の部分を直した。
洗面所で手洗いを済ませた後リビングに通される。無人の家の中で、ただ一匹、大きなソファの真ん中に飼い猫のフォルトゥナータが居た。隣に腰を下ろすと、にゃあと鳴く。手を差し出すとクンクン匂いを嗅がれ、髭の根元を擦りつけてきた。撫でろということだろうか。要求に逆らわずにふわふわの毛を撫でつけていると気持ちよさそうに目を細め膝に乗ってきた。
「フォルに先を越されちゃいました」
キッチンから戻ってきた鳳が、二つのマグカップをテーブルに並べる。紅茶のいい香りがした。隣に腰かけ、宍戸の膝に居座るフォルトゥナータの背を撫でるとしっぽがぱたりと振られた。
自然と二人の視線が交わる。吸い寄せられるように唇を合わせた。性的な香りのしないほんの一瞬の口付けのあと、二人はソファの背に深く沈み、安堵のため息をもらした。
「「はぁ~」」
張っていた気が緩む。肩を寄せ合い、どちらからともなく手を握った。
普段はさして意識しないことだが、今日のような日は互いに触れ合うことを好んだ。鋭くなりすぎる触覚も、それに伴う焦燥も、手の届く距離に相手が居れば和らいだ。強い引力が二人の間に作用しているかのように惹かれ合い、離れれば離れるほどに強く求めてしまう。
「陽が落ちるまで、まだ時間がありますね」
「そう、だな」
「あれ? 宍戸さん眠いんですか?」
「んー…フォルもおまえもあったかくて、なんか…」
こてんと頭を肩に乗せられ、鳳の頬が緩んだ。静かな湖畔みたいに雑音のない感情が流れ込んできて、気を許してくれていることがわかり嬉しくなる。
「少し眠りますか? 夜になったら朝日が昇るまで眠れないですし」
うん、という小さな相槌とともに規則的な寝息が聞こえてくる。じんわり広がる肩の温かさが眠気を誘い、しばらくして鳳の意識もまどろみの中に溶けていった。
目覚めたのは二人同時だった。
シャツが肌に張り付く程ひどく汗をかいている。心臓の高鳴りがうるさい。血液の流れが速く体は火照り、呼吸が浅く息苦しい。
覚えのある体の異変に顔を見合わせた二人は、とっぷりと日が落ちて暗くなった部屋に煌々と月明かりが差し込んでいることに気が付いた。
「やばい、月が昇ってる!」
「どうしよう、は、早く部屋に行かないと」
立ち上がろうとした鳳の腕が強い力で引かれる。驚いて腕を引いた張本人を振り向くと伸びてきた手にいきなりネクタイを引かれ、ぶつかる勢いで唇を塞がれた。歯が当たり、舌が口の中を無遠慮にかき混ぜる。唾液とともに鳳に流れ込んできたのは、抑えようもない宍戸の発情だった。
「長太郎、やばい、始まっちまった」
「は、はい、早く俺の部屋に…」
欲望に負けてこの場で行為に及んでしまうことはなんとか避けたい。砕けそうになる腰を叱咤して立ち上がった二人は、足をもつれさせながらリビングを出た。鳳の自室は二階にある。気を抜くとへたり込みそうになる宍戸の手を引いて階段をのぼった。その場で交わってしまいたい衝動を抑え込みながら、道中何度も食らいつくような口づけが交わされる。部屋の前にたどり着くまでの時間が永遠に感じられた。
乱暴に開け放ったドアから押し込むようにして宍戸を部屋の中に入れる。勢いをつけられよろめいた宍戸は、三歩四歩たたらを踏んでベッドのそばで踏みとどまった。こちらに振り向いた彼の、その背にはカーテンを開け放ったままの窓から満月の月明かりが降り注ぎ、暗闇の中で輪郭を神聖に強調している。鳳は目を見張り、息を飲んだ。ドアが閉まり切るのを待たず大股で踏み出し距離を詰める。次の瞬間にはお互いの唇にかぶりついていた。両手で相手の頭を固定するように包み込む。絡める舌に意図や打算はない。ただ純粋に肉感だけを追い求めていた。
甘くて気持ちがいいのだ。
感覚が共有され、刺激しただけ快感が返ってくる。こうしていなければ呼吸ができない程に飢えていた。そしてその飢えは口付けだけではいつまでも満たされることはない。
早く、もっと深い所で繋がらないと。広大な海で溺れたら、こんな風に苦しくて心細くて絶望で、それから、生きたくてたまらなくなるのだろう。悲しいのとも、つらいのとも違う、全身で求め、求められている実感に、鳳の瞳に涙が溢れた。
「わけわかんねぇ泣き方すんのな、おまえ」
吐息だけで語り掛けられた言葉に、鳳は答えなかった。言葉では言い表せない感情は、ちゃんと宍戸に伝わっている。それでよかった。
かわりに宍戸のネクタイの結び目を引っ張った。ネクタイの布地は、どちらのものとも区別がつかない垂れ落ちた唾液で濡れ、ところどころ色が変わってしまっている。それを首から抜き取るのを合図に、二人は制服を脱ぎ始めた。宍戸だけでなく、鳳までもが不愉快さを隠すことなく顔に出して一心不乱に剥ぎ取っていく。畳むとか皺にならないようにどこかに掛けておくとか、そんな社会性のある思考は頭の端にもわいて来なかった。肌を覆う煩わしいものをただただ削げ落したかった。朝になったらフローリングに這いつくばってシャツから千切れたボタンを探さなければならないだろうが、今大事なことは、この手で彼に触れることだけなのだ。
全て脱ぎ去りベッドに押し倒された宍戸は、自ら足を開いて秘部を晒した。そうであることが当然のように、鳳はその緩く勃ち上がった陰茎にしゃぶりつく。先走りと汗のしょっぱさを唾液で絡めてじゅるじゅる音を立てながら口淫すれば、すぐに口の中で硬く膨張した。根元まで咥えこめば、鼻先が陰毛に埋まり濃い雄の香りが脳髄を痺れさせる。
「あぁっ、ちょうたろっ、吸って、も、出る…っ」
宍戸の限界が近いことは分かっていた。だって自分もしゃぶられたように気持ちいい。次に強く吸ったら弾けてしまうということまで分かる。鳳は自らの亀頭を手で覆い来たるべき射精に備えると、ぴったりくっつけた舌で裏筋を圧迫しながら宍戸の陰茎を吸った。
「っく、ぅぅ…っ」
「ふっ、ぅ」
勢いよく吐き出された精液が口の中いっぱいに広がる。同時に感じるのは尿道を精液が通り抜ける快感。宍戸の腰が断続的に揺れるのと同じく、鳳も腰をひくつかせて手のひらに吐精した。小刻みに震える陰茎を舌に乗せたまま、宍戸が全て出し切るまで待った。
くしゃり、前髪を手で梳かれる。
精液を口に含んだまま宍戸の陰茎から離れ顔を上げようとすると、額の汗を親指で拭われた。その指先を目で追う。行きついた先は宍戸の口元で、彼は指についた鳳の汗をぺろりと舐め、そして口の端を持ち上げて
「長太郎、早く」
と言ったのだ。
囁きほどの小さな声だったが、鳳には十分すぎた。浅い呼吸で上下する胸、汗ばんだ肌は月明かりに照らされ艶やかに輝き、涙で潤う目元は熱く揺らいでいる。一歳しか違わないはずの彼が知らない大人に見えてしまうほどにその姿は妖艶で、肉体の全てで誘われているかのようだった。
鳳は自分の精をまとった手のひらに宍戸の精液を吐き出した。紅い舌を伝って白濁がゆっくり流れ出る様を、宍戸は背徳的な気持ちで見つめた。淫靡の欠片も持ち合わせていないような清潔さが誰もが知る鳳の姿だ。しかし目の前にいる彼は汗と精液にまみれ、本能のままに自分を穿つ獣の姿をしている。伝わってくる感情はストレートに宍戸を欲していて、ますます宍戸を昂ぶらせた。自然と足が開いてしまう。熱に浮かされ、鳳によく見えるように自ら尻たぶを掴んで拡げた。桃色の縁取りをした後孔が晒される。その様子を食い入るように見つめていた鳳の瞳に炎がちらついたのを、宍戸は見逃さなかった。
「早く」
二人分の精液を握りつぶして、鳳は指に絡んだそれを宍戸の後孔に塗りたくった。ふちをなぞられるもどかしさに宍戸は下唇を噛んだ。尻たぶを掴む指に力を込める。焦燥が鳳に伝わり、皺の一つ一つを伸ばすように擦られていた指先が胎内に侵入してきた。後孔のまわりに零れた精液をかき集めては腸壁に塗り込められる。しかし精液だけでは滑りが足りず、指の第二関節ほどを挿入するにとどまってしまった。
「んっ、くそ、やっぱだめか。っ、ローション、どこにある?」
「ベッドの下の、収納に、っ」
宍戸は体をねじりローションボトルを取ろうと腕を伸ばした。しかし鳳の両手に爪が食い込むほど腰を強く掴まれ動きを封じられてしまう。
「ちょ、たろ、待て。俺が取って、や、るから、んぁっ!」
「だめです、宍戸さん、俺、もう、入れたいっ」
「まっ、て…あぁっ!まだ、はいんない、のに…ぃ」
中途半端にしか解されていない後孔にパンパンに腫れた亀頭が埋め込まれた。しかし滑りが悪いせいでカリ首までしか侵入できない。鳳はそれ以上挿入することはせず、宍戸の浅い所をぬぷぬぷと律動した。アナルの入り口にうまい具合にカリ首が引っかかって二人に快感をもたらす。
「や、あっ、っふ、んぅ」
「ごめ、なさい、っく、ごめ、宍戸さん、止まんな、っい」
「そこ、ばっかり、やめ、んぁ」
「宍戸さんが、きもちいの、わかります、っく、ねぇ、…出していいです、か?」
「っ、え?」
「も、無理です、はっ…イ、っく…!」
「まて、ってば…っ、ぅあ、んぅ~~~…」
亀頭だけを挿入した状態で鳳は射精した。痙攣した宍戸の太ももが鳳の腰を挟んだ。宍戸の先端からも白濁が散り、みぞおちの辺りまでを点々と汚した。荒い呼吸のまま鳳が腰を引くと、胎内に受け止めきれなかった精液がアナルから漏れ出して尾てい骨を扇情的に伝っていく。
「ごめんなさい……暴走…しちゃいました」
「…いや、俺も…止めきれなかったし」
爪痕のついた宍戸の腰をさすって、鳳がもう一度ごめんなさいと呟いた。
「宍戸さんが気持ちよくなってるのが全部わかって、俺、わけわかんなくなっちゃうんです」
「うん」
「いつも宍戸さんに受け入れてもらって、それがどんな感覚なのかわからないんですけど、でも今日みたいな日だけは全部わかってしまって、わかんないんだけどすごく気持ちいいってことだけはわかってしまうから、だから」
「いいんだって、それで」
ゆっくりと起き上がった宍戸は今度こそ腕を伸ばしてベッド下の収納ボックスを探り、ローションボトルを取り出した。キャップを開けて中身を片方の手のひらに垂らし温める。
「おまえにされてることがすげぇ気持ちいいんだってこと、おまえに伝わってんならそれでいいんだよ」
「でも、嫌になったりしませんか」
「なってないってことはおまえが一番よく知ってんじゃねぇのか?」
「それは…そうですけど…」
ベッドの隅で膝を抱えている鳳に手招きする。あぐらをかいて座らせ、太腿を膝立ちで跨いで向かい合い対面座位の体勢になった。汗で湿った髪を撫でつけてやると、眉をへの字にして見上げてきたので、それが無性にいじらしくて眉間に口付けた。
「なのになんで不安そうな顔すんだよ」
「だって、こんな不思議なこと、いつならなくなるかもわからないじゃないですか」
「俺は元通りに戻ってもいいと思ってるけどな」
「…本気ですか」
宍戸の言葉に、鳳は背筋を氷が滑り落ちていく心地だった。共鳴し合う現象が起きなくなったからと言って自分たちの関係が変わることはないだろう。しかしここまで深く繋がり合うことは出来なくなるのではないか。一度知ってしまった以心伝心の心地よさをあっさり手放してもいいと言う宍戸を信じられない気持ちで見つめた。
「怒るなよ」
「怒ってないですよ」
「うそだ。裏切られたと思ってるだろ」
「そんなこと…」
宍戸への子ども染みた執着心が見透かされて、鳳は苦虫を噛み潰したような顔をして俯いた。
「俺、かっこ悪い」
「そんなことねぇよ」
長太郎、と呼ぶ声に導かれるように見上げると、慈しみを込めたキスが降ってくる。まぶたや頬、鼻先に唇。触れられるたびに綿毛に包まれたように心が安らぐのは、宍戸の感情が優しく流れ込んでくるからだろうか。
「もし伝わらなくなったとしても、俺はおまえになら何されても許してしまうと思う」
鳳の肩に片手をついた宍戸は、後ろ手で温めていたローションを後孔に塗り込め自ら指を挿し入れた。二本の指はすんなり受け入れられ、宍戸は何度も抜き差しして内側にローションを馴染ませていく。
「ふっ、ぅ」
挿入されるための準備を彼の目前に晒す。その視線が肌をチリチリ焼くようで、たまらず宍戸は唇を舐めた。緩やかに陰茎が勃ち上がる。ローションを継ぎ足して尚も拡張を試みていると、そえられていた鳳の右手が内ももを這い上がり、鼠径部をかすめ会陰をなぞってきた。その刺激に思わず腰が跳ねてしまったのは不可抗力だ。
「俺も、します」
鳳の指先が蕾のふちをつつく。すでに二本指が入ったそこに、鳳の節の無い真っ直ぐな中指が割り入ってきたらどんな心地がするだろう。
「いや、…もう、大丈夫」
それは倒錯的で魅力的な申し出であったが宍戸は断ることにした。もう、指では届かない場所が疼いて仕方ないのだ。
指を抜くと腸内に留まり切れなかったローションが溢れて、粘度のあるそれは途切れることなく鳳の太ももにひとすじ線を垂らした。
宍戸はもう一度ボトルからローションを手に絞り出し温める。そして十分に屹立した鳳のペニスに塗りたくった。本当は直接ボトルから中身をぶちまけて、勢いのままに乗っかってしまいたい。そうしないのは、この行為が独りよがりの性欲処理ではないからだ。鳳と繋がるということ、それがどんなに心を満たすのかを宍戸は知ってしまっている。
「長太郎、俺、もう」
続く言葉は性急なキスに飲み込まれた。鳳の背に両腕を回して縋りつく。腰を落とせば後孔にぴたりと亀頭があてがわれ、宍戸の胎内は抵抗することなく全て飲み込んだ。
「んっ、んぅ」
待ち望んだ圧迫感が宍戸の喉を詰まらせる。腹の奥深くが切なく震え、無意識に腰がヒクヒクと波打つ。鳳もまた、熱い肉壁に性器を食まれ腰が砕けそうになる。伝染し合った快感の逃し方を知らない二人は、強く互いを抱きしめることしかできない。
「っは、あ、すっげ…」
「良すぎて動けない、です」
「はは、だな。…けど」
宍戸が不意を突いて腰を振り始めた。ぱちゅぱちゅ、肌が当たるたびに水音が混じる。突然の強い刺激に、鳳は歯を食いしばって耐えた。
「こっちの、方が、…んあっ、イイ、だろ…?」
「んくっ…ししどさ、急に、そんなされたら…」
「ふっ…んぅ、あ、奥っ、もうちょっと」
「…ぅ、くっ」
「ちょおたろぉ、奥、…足んない」
腰を落として動きを止めた宍戸がもどかしそうにもぞもぞ背をくねらせる。挿入してからの短時間ですっかり欲情しきった瞳はとろんと潤み、薄く開いた唇から吐息が漏れている。目の前でこんなにもあけっぴろげに求められてしまえば、理性など惜しげなく捨ててしまえる。鳳は興奮で眩暈がした。満月の夜にしか見せない宍戸のあられもない姿が、鳳の支配欲に火を着けた。力任せに宍戸を押し倒し、拍子に抜けてしまった怒張を再び熟れた後孔に突き刺した。
「あぁぁっ…っ!」
「……いっぱい、宍戸さんの奥、とんとんしてあげますねっ」
膝裏に手を掛け大きく開脚させると体重をかけて穿つ。衝撃で逃げそうになる宍戸の腰をがっちり掴んで引き寄せ、繰り返し腰を打ち付けた。
「がっ、は! あぁっ! うぁ、やぁっ」
「宍戸さんの狭いとこ、開けてください、よ」
「うあ、やめ、ちょたろ、んぐっ、」
宍戸の目から涙が溢れた。呼応して流れる鳳の涙が、眼下で快感に震える肢体に散る。
呻きとも喘ぎとも呼べない咆哮が喉を震わせる。自分の体を所有しているのは彼で、手中にあるのは彼の感覚で、朦朧とした意識の中で、自分と彼の境界が曖昧になっていく。
「っ…ッ!」
鳳が腰を打ち付けた刹那、背をしならせた宍戸は声を失った。
ついに最奥を穿たれた。
腰を掴む鳳の腕に爪を立て、見開いた目は焦点が合っていない。
同時に体を突き抜けていった雷に似た一瞬の鮮烈。
「あ、ぁ…」
腹の中が痙攣し始め、反らした喉から震えた声が漏れる。体の芯が痺れて、思考に靄がかかった。何も見えず、何も聞こえない。真っ白な砂漠に手ぶらで放り出されたようだ。
「宍戸、さん」
鳳は呼応して意識が引っ張られそうになるのを、宍戸に爪を立てられた腕の痛みでかろうじて踏みとどまった。胎内の痙攣が性感を高め、たまらず精を吐き出した。どくどく、こめかみを流れる血液が濁流のようだ。長い射精の間、断続的にヒクつく宍戸を眺めていた。全身で感じ入り、ぺニスはトロトロと精液を垂れ流している。その全てを目に焼き付けた。鳳の陰茎が精液を吐き出しきったあとも、まだ宍戸の胎内は鳳の陰茎を離すまいと絡み付いてくる。浅ましくて愛しくて、鳳は宍戸の鎖骨に歯を立てた。あぁっ、と耳もとで漏れる喘ぎが鳳を煽る。あんなに激しくぶつけたはずなのに、くすぶり出した情欲は再び鳳を昂らせた。腹の中で怒張が硬さを取り戻し、反応した宍戸の瞳が期待と恐れに揺らめいた。
「あっ、おまえ、また」
「ヒクヒクして全然離してくれないから、もっとたくさんしてあげます、ね」
「ま、て、まだイってる、からっ」
「待つ? 待っていいんですか? 足りないって思ってますよね? ねぇ、宍戸さん。宍戸さんがして欲しいこと全部わかるんですよ」
力の入らない両足を胸の方まで押し上げられる。腰が浮き結合部を強調する姿勢にされて羞恥と興奮で頭に血が上った。
「んぁっ!」
「恥ずかしいですか? でもこうするといっぱい奥の方つっついてあげられますよ。いいですよね? はぁ…っ、動いていいですよね?」
二重の快感に眉根を寄せて宍戸を見下ろす瞳が許しを乞うている。こんな体勢にさせられて、明らかに主導権はそちらにあるのに従順に待てをする鳳がいじらしくて、宍戸は震える唇を開いた。
「…まだ、足りない、から、」
もっと、と唇が動くやいなや鳳は律動を始めた。肌がぶつかり合う度に、ずちゅっと卑猥な水音が耳を犯す。
「俺、っがんばり、ます」
その言葉どおり、鳳は精一杯宍戸を穿った。抵抗もセックスへの協力もできない宍戸はひたすらに追い詰められる。声の出るまま喘ぎ、与えられるまま快感を貪った。
「また、あぁっ! また、くる、ぅぅ!」
「うぁ、すごいの、キますね、っ、」
「ちょうた、ろ、無理、もう、んぅぅ」
「俺も、もう…っ、っ」
宍戸の震える腕が救いを求めるように虚空をさまよい鳳の肩を掴んだ。爪が肌に赤く傷をつける。痛みを感じる余裕などなかった。刹那、スパークするような快感が脳を突き抜け、達しながら全身がうち震えた。これが射精からくるものなのか、宍戸のナカイキからくるものなのか、鳳には判別する術がなかった。
続けざまに強すぎるほどの快楽を味わい放心状態になる。
酸素を取り込もうと胸が大きく上下した。
互いの呼吸が整いだしたのを確認して、鳳は宍戸と重なっていた汗だくの肌を名残惜しく離した。後孔からぺニスをゆっくり抜くと、窄まる蕾から受け止めきれない白濁が溢れ出てくる。抜かずに二度射精された多すぎる精液の量に、蕾はこぷっと小さく鳴いた。その様があまりに刺激的すぎて、初めて目にするわけではないのに鳳は思わず目を反らした。
「ちょうたろう」
舌足らずでかすれた声が、いとしげに鳳の名を呼んだ。
シーツに放り出された肢体は頼りなく、その瞳は鳳だけを映していた。
得も言われぬ幸福感が鳳を包む。この感情は宍戸から流れ込んできたものだ。
鳳の胸が軋んだ。
恋しい。恋しくてたまらない。想いは溢れて止まず、全部を伝えたいのに、何一つ言葉にできないのだ。
そのジレンマは大粒の涙になり、鳳はくしゃりと顔を歪ませた。
「宍戸さん。好きです。大好きなんです」
「うん、知ってる」
「もっと、大好きよりもっと…俺…」
「…長太郎。おいで」
ゆっくりと差し出された腕の中に倒れるように飛び込んだ。涙が宍戸の髪を濡らす。
宍戸の首筋に鼻先をうずめて匂いを吸い込んだ。
汗に混じったそれは確かに男の香りなのに、どこかほの甘く感じるのはなぜだろう。
空にはまだ月が高く輝いていた。
それからは言葉少なに、湧き上がる衝動のまま交じり合った。
目が合えばキスをして、腕を伸ばせば抱き締め合った。
触れ合わない瞬間などひとときも無く、汗と涙と精液をシーツに染み込ませて、月明かりの下でお互いの体温と息遣いだけが際立っていた。
やがて月が沈み柔らかな陽の光が部屋を満たし始めたころ、二人は重なることをやめ、指一本動かすのも億劫なほど消耗した体がベッドに二つ並ぶ。それでも離れがたくて、二人は肩を寄せ合い触れるだけのキスをした。
重いまぶたに抗えず眠りに落ちる刹那、鳳は宍戸の、慈しみを湛えた微笑みを見た。
「やっちまった!!」
窓から直接差し込んでくる太陽光の眩しさに目覚めた宍戸は勢いよく体を起こした。喉がひりつくのはゆうべ声を出し過ぎた上に突然叫んだせいだ。無理矢理働かせた頭で現状を把握するに、部屋の明るさからして明らかに昼を過ぎている。今日は平日で学生は学校で勉学に勤しんでいなければならない時間帯だ。寝坊どころの騒ぎではない。頭を抱えそうになった瞬間、腰に鈍痛が走り、喉の奥で「ぐぅっ!」と潰された声が出た。よろよろと緩慢な動きでシーツに横たわる。その時初めて下着とTシャツが着せられていたことに気付いた。いつ着たんだと不思議に思っていると隣から腕が伸びてきて腰に回される。ハッとして鳳の方を向くと、すでに数時間前には目覚めていたと思われるすっきりとした瞳がこちらを見ていた。
「宍戸さんは風邪をひいて熱が出たので今日はお休みです」
「は?」
「俺も風邪がうつったことになったので休みです」
宍戸が起き上がったせいではだけた毛布を、鳳は慣れた手つきで手繰り寄せた。二人で一枚の毛布を分け合う。言葉の先を促すような宍戸の鋭い目つきに、ばつが悪そうに眉尻を下げた鳳が口を開いた。
「姉が朝方に帰ってきたので、学校と宍戸さんちに電話してもらいました。宍戸さんはうちで看病していることになっています。勝手なことしちゃってすみません。宍戸さん、ぐっすり眠っていたので起こしたくなくて…」
嘘ついてごめんなさい、と謝りながら鳳が抱きついてくる。
余計なことをするなと叱ろうとしたが、目覚ましにも気付かず寝過ごした自分に非がないとは言えないので、宍戸は抵抗せずに腕の中にすっぽりと収まってやった。鳳はいつも後ろをついて歩く従順な後輩のようでいて、ときたまこういった大胆な行動を起こす。メンタルが弱いと言われているが、本当にそうなのかと疑いたくなる瞬間が今までも何度かあった。
あたたかい手のひらで鈍く痛む腰をさすられる。
気だるい体がじんわりと癒されていく心地がして、学校をさぼってしまったことがどうでもよくなってきた。
「なんか、おまえんちに迷惑かけちまったな。ごめん」
「謝らないで下さい。俺がしたくてしたことですし、姉も内緒にしてくれるって言ってました。それより、もう少しこうしてくっついていていいですか」
満月の夜を越えた二人は普段と同じように、もうお互いの感情も感覚もわからなくなっていた。
数時間前まで、あんなに二人は一つだったのに。
自分の器官をひとつ失ったような虚無感が鳳を襲い、どうしようもない心細さに宍戸を抱きしめる腕に力を込めた。
「なんだよ長太郎、甘えてんのか?」
腕の中の宍戸が頭を上げ覗き込んでくる。
「情けない顔」
いたずらな笑顔を向けられて、切なさが募った。
こんなに近くにいても一つになることは出来ない。当たり前の事実が、今はひどく絶望に感じられた。
「宍戸さんは、寂しくならないんですか。俺は満月の次の日はいつも……寂しくて仕方ない気持ちになります」
「ならない」
短い即答が返ってくる。
繋いでいた手を突然離された迷子のように、寄る辺ない気持ちで声が潤んだ。
「どうして…」
「泣くなよ」
「だって…」
「なんでわかんねぇかな」
宍戸が抱きしめ返してくる。
手のひらが鳳の背をトントンとたたいた。
宥めるように優しく、泣くようなことは何もないんだという気持ちを込めて。
宍戸は思う。
こんな現象はまやかしで、繋がりとは感情や感覚を共有することで証明されるわけでは決してない。
それにわかっているはずなんだ。
共鳴し合うことなんかに頼らなくても、二人でコートに立てば俺たちは最強だと思えるということ。
そう信じれることが、絆ってやつなんじゃないだろうか。
二人は一人にはなれないからこそ、強く想い合えるのだ。
だから宍戸は待っていてやろうと思う。
この不安がりがそのことに気付くまで、誰よりも側で、ずっと。