風邪をひいた長太郎の話

「長太郎、具合どうだ?」
トーンを抑えた聞きなれた声がして、俺はまぶたを開いた。
今朝目覚めたときから熱があり大事を取って横になっていたのだけれど、重くなるまぶたに反してなかなか眠れず今に至る。
宍戸さんが俺のおでこのぬるくなった冷却シートを剥がした。
見上げた顔は、マスクをしていてどんな表情をしているのか読み取れない。
タオルケットをはいだ俺は、のらりくらり起き上がって手渡された体温計をわきの下に挟んだ。
一瞬だけ冷たく感じたけれど、すぐに体の熱さに馴染んで分からなくなる。
あぁ、だるい。
頭がぼーっとするし、汗だくな体を起こしているのもしんどい。
背すじをまっすぐにしていられなくて、項垂れた重い頭を振り子みたいにゆらゆら揺らしていたら宍戸さんが俺のほっぺたに手を添えた。
ひんやりして気持ちがいい。
揺れるのをやめて頬擦りしたら、おでこに冷たいものが宛がわれた。
「そのまま止まっとけよ」
おでこに触れたのはシートが剥がされていないままの冷却シートだったみたいだ。薄目を開けて、宍戸さんが透明なシートを剥がすのをじっと見つめる。ひんやりした手のひらが俺の前髪を押さえるようにして上げて、ジェル状の冷却面がおでこにくっつけられた。
ピピピピッ。体温計が鳴る。
取り出すために動こうとする前に、Tシャツの襟首が引っ張られた。手を突っ込んで体温計を取った宍戸さんは表示された数値を見て眉をしかめる。
「三十八度七分」
「うへぇ」
「うへぇ、じゃねぇ。さっきより熱上がってんじゃねぇか。だめだ、病院いくぞ」
体温計をケースにしまって枕元に置いた宍戸さんは、部屋の中を横切ってクローゼットに向かい俺の服が入った引き出しから替えのTシャツとトレーニングウェアの上下、それから下着を持って戻ってきた。
「車出すから着替えてろ」
「パンツもですかぁ?」
「汗かいたまま外出たら悪化するだろ」
「……はぁい」
宍戸さんは持ってきた服を着替える順に重ねて置いてくれた。
一番上のグリーンのTシャツに手を伸ばそうとして、まだ汗だくのTシャツを着たままだったことを思い出し、ふーっと息をつく。
ちょっとした一挙手一投足でさえ気怠い。
「しんどそうだな。一人で着替えられるか?」
「だいじょぶですよぉ」
本当は喋るのも腕を上げるのも億劫だけど、これ以上迷惑はかけられない。
ゆっくりと動く俺を気にかけつつ、クローゼットからパーカーを引っ張り出した宍戸さんは足早に部屋を出て行ってしまった。
カバンから車のキーを取り出した音だろうか、ドアの向こうから金属がぶつかり合うチャラチャラとした高い音が聞こえる。
ややあって玄関のドアが開く音がした。駐車場に車を取りに出て行ったのだろう。
「きがえ、なくちゃ」
まずはたっぷり汗を吸い込んだTシャツを脱がなくては。
片腕を抜こうとしたけれど、湿った布が肌に張り付いてうまくいかない。
無理やり引っ張る力も残っていなくて、腕から脱ぎ始める道を諦めた俺はおなかの裾をまくり上げて脱ぐ道を選んだ。
腕を交差させて裾を掴み、引き上げる。
すると悲しいかな、両腕を巻き込んだまま濡れた布地が絡まり身動きが取れなくなってしまった。
体を捩ってみようとするけれどさっぱり言うことを聞いてくれない。
それどころかバランスを保っていられなくなって、背中からベッドに倒れこんでしまった。
もうだめだ。動けない。目を開けているのもつらい。俺はなんて木偶の坊なんだろう。ぐらぐらするし、熱いし、苦しいし、なんだか悲しくなってきたし。もういやだ。なんで俺はここにいるの。俺、何してんの。宍戸さん、宍戸さん。助けて。
「大丈夫か?」
声がしてまぶたを開ければ、戻ってきた宍戸さんが溢れっぱなしの涙に溺れそうになっている俺を覗き込んでいた。
「何やってんの」
「ふく、ぬげなくっ、て」
「あ~あ~、泣くな泣くな。起きれるか? 無理だな。起こしてやるからな」
ベッドに片膝を乗り上げて、宍戸さんはみのむしみたいになっている俺を抱きかかえて起こしてくれた。
纏いつく布地が引き下げられて、俺の両腕は自由になる。かいがいしくティッシュで俺の涙を拭いてくれて、新しいティッシュを受け取って鼻をちーんとかめば、すっきりして呼吸が楽になった。
「腕上げろ」
「ん~」
ばんざいすればシャツは簡単に脱がされ、あっという間に新しいTシャツとトレーナーを着せられた。一人で泣きながら悪戦苦闘したのは何だったのだろうと思えるくらいのあっけなさで、今の俺はこんな簡単なこともできないくらい弱っているのかと実感させられる。そしてそんなあっけなさで、下半身は下着ごと一気に剥ぎ取られてしまった。
「今更恥ずかしがることないだろ」
トレーナーの裾を引っ張って露わになった局部を隠そうとしている俺に、宍戸さんは呆れながらパンツを渡してきた。
「それと、これとは、違うじゃないですかぁ」
ベッドの上で体育座りをし、パンツのゴムを引っ張って足を通した。
けれど焦りがそうさせるのか、早く穿いてしまいたいのに、足の指にひっかかり、踵にひっかかり、あげくバランスを崩してさっきのように後ろにひっくり返ってしまった。
「うぁ」
「あ」
宍戸さんの視線が丸出しになった俺のおしりに降り注ぐ。宍戸さんの言うように今更恥ずかしがるようなことではないはずなのに、かーっと顔の熱が上がって、栓が壊れたみたいにまた涙が出てきた。
「あーもう、長太郎、泣くな」
「な、なきたくて、ないてるわけじゃ、ないんです、ぅぅ~」
「そうだな、熱あるからな。しょうがねぇよな」
「おれぇ、およめに、いけなくなったら、どうしましょぉ」
「大丈夫大丈夫。そんなこと言ったらおまえなんかより俺の方が嫁にいけねぇから」
「そぉでしたぁ」
おい、とマスクの下で笑いながら俺を小突く振りをして見せた宍戸さんは、優しい手つきで下着とウェアの下を穿くのを手伝ってくれた。これで外に出る準備はばっちり。涙は止まったけれど、まだウルウルして目玉がお風呂の中にいるみたいだ。また宍戸さんは部屋を出て行ってしまったので、ベッドのへりに腰かけて鼻をかんで丸めたちり紙をゴミ箱に放り投げたら明後日の方向に飛んでいってしまった。拾いに行く気力は当然無い。もう寝転んでしまわないように背中を丸めて落ちたちり紙をぼーっと眺めていたら、宍戸さんがマグカップを持って戻ってきた。
「麦茶。ちゃんと全部飲めよ。病院の帰りにスポドリ買うから」
「ありがとう、ございます」
俺が滑り落とさないようにグラスじゃなくて取っ手のあるマグカップを選んでくれたんだろうなぁ。
俺の財布から保険証を取り出したり、タオルや保冷剤をショルダーバッグに詰めたり、忙しなく動き回っている宍戸さんを横目にカップに口をつければ、冷たい液体が火照った粘膜を冷やして心地いい。コクコク、喉を流れる清涼感にほっとしながら、少しずつだけど全部飲み切った。
「お、全部飲んだか? 偉いじゃねぇか」
「ふぁい」
隣に腰かけた宍戸さんが俺のほっぺたに触れる。やっぱり、冷たくて気持ちいい。
「いっぱい、ありがとうございます」
「なんだよ急に」
「俺、ぜんぜん、だめだめなのに、見捨てないでいてくれて」
「風邪ひいたくらいでダメなやつだなんて思わねぇよ」
気遣ってくれる優しい声に、また涙がこみ上げそうになる。
俺にマスクをつけた宍戸さんは、諸々を詰めたショルダーバッグを斜め掛けにして立ち上がった。
「よし、病院行くぞ。立てるか? ゆっくりでいいからな」
そう言って差し出された手のひらではなく、俺は無意識に宍戸さんのパーカーの端っこを掴んでいた。
まるでこどもが親に縋るみたいに。
「宍戸さぁん」
「どうした?」
「俺って、いっしょう、宍戸さんに追い付けないんです」
「はぁ? 一生が何だって?」
「だって、宍戸さんって、俺より先にうまれたから」
「あぁ、そういう意味か」
俺が生まれたのは宍戸さんが生まれてから約十七ヶ月後。宍戸さんがこの世に生まれ落ちたころ、俺の存在は無だった。
「だから、俺は、宍戸さんがいないせかいを知らないんです」
「まぁ、そういうことになるけど……随分と大袈裟だな」
「だから」
「だから?」
「だから、もし今、俺がしんじゃったら」
「おい」
「おれ」
「なに弱気になってんだよ。すぐ病院連れて行ってやるから、な?」
動こうとしない俺を立たせようと、宍戸さんは両腕を引っ張った。けれど体重は俺の方が十キロ以上重いから、当たり前だけれど簡単には立たせられない。「なぁ、病院いやなのか?」「なんで? さっきまで言うことちゃんと聞いてたじゃん」「頼むから立てって」と、ぽけーっと宍戸さんを見つめるだけの俺にたくさんの言葉をかけ続けてくれるのが嬉しくなって、俺は引っ張られていた腕を目の前にある宍戸さんの腰に回して引き寄せた。
「しあわせです」
「はぁ?」
宍戸さんのおなかに顔をうずめるとなんだかすごく心が安らいで、このまま眠ってしまいたくなる。
「宍戸さんのいないせかいを知らずにしねるなら、俺はとってもしあわせです」
本当に、なんて幸せなことだろう。
このまま宍戸さんの腕の中でしんでしまえたら、俺がしぬところを見届けてもらえたなら、それだけで俺がこの世界に存在していた意味になる。
心の底からそう思ったんだ。

「おまえは死なない! ただの風邪! 死ぬのはもっとずーーーーっとあと!」

熱で朦朧とした脳天に平手で一撃を食らった俺は強制的に蘇生され、病院に連行され、適切な処置を受け、そして三日後に俺の風邪が感染って寝込む宍戸さんの看病をすることになるのだけれど、それはまたいつかの別のお話。