初出 2020/6/14 大学生長太郎×サキュバス宍戸

その昔、神と人間の営みが密接に関わり合っていたように、悪魔と人間もお互いにその存在を近しく感じながら生きていた。
悪魔に囁かれ、惑わされ、乗り移られては祓い遠ざけ、その一方で召喚し従属した。
契約を交わして代価を支払う、そんな古代のしきたりは今では笑い話にもならない黴た因習だが、神が人に与え奪いもするというある意味一方的な生殺与奪権を所有していることに対し、悪魔は人間と等価交換しながら繁栄する生き物だった。
求められたものを与え、その代わりに搾取する。
過不足なく、多少の不幸は目をつぶれ。
そうやって繋がった縁は滅多なことでは切れることなく、運命共同体となり身を滅ぼした人間は数知れなかった。
悪魔にはさまざまな種族が存在している。
サキュバスという種族もそのことわりに則り、人間に快楽を与える代わりに精気を餌として奪取し生きてきた。
夜な夜な寝屋に忍び込んでは魔力で誘惑し、発情した人間のエネルギーを食らう。
サキュバスが去り翌朝目覚めた人間が覚えているのは、せいぜい淫猥な夢を見たくらいなものだ。
気ままで奔放。夜を遊び場とし、人間の性欲を自由自在に操る小悪魔。
だがそんなサキュバスにも弱点があった。
彼らは人間に恋をしたらその力を失う。
だからはるか昔から、人間は食料以上でも以下でもないものとして教えられてきた。
幾星霜、教えはいつしか常識になり、生態となる。
人間との恋が魔力を失う原因になることなど、誰もがおとぎ話だと軽んじる時代になった。
なにせ、サキュバスにとっては恋する気持ちすらも、さして重要なものではない。
恋などせずとも彼らは増殖するし、人間たちからは精気を吸い取れる。
サキュバスは恋を忘れ、今宵も食欲旺盛に人間を食らうのだ。
雑踏。
飛び回ることもできず地を蹴ることしかできない人間たちの群れ。
統率が取れているわけでもなく、ただただ個々が好き勝手に行き交う真夜中の繁華街。
街灯は煌々と大路を照らし、ひしめき合うように立ち並ぶ店々が主張激しく客を誘う。
電光掲示板は騒々しい音楽とともに忙しなく画面の様相を変えるが、誰一人として足を止めるものは居ない。
露店、行列、客引き、酔っ払い。喧噪、金切り声、バカ騒ぎ。
誰もが己のこと以外、興味がない。
そんな、泥水がとめどなく流れ込む排水溝のような通りの、支流にあたる暗い路地に、二つ、切れ長の瞳が光を放った。
陰から生まれるように、音も気配もなく現れたその者を見咎める人間はいない。
その出で立ちはまるで人のよう、黒いパーカーのフードを目深に被り、ダメージジーンズに、これまた黒のハイカットスニーカー。
俯きがちに通りに出て、人の流れにまぎれた。
彼の名は宍戸亮。まだ半人前のサキュバスだ。
今宵は彼にとって、初めて人間界に降り立った記念日となる。
宍戸は静かに深く息を吸い込み、わずかに口端を引き上げた。
サキュバスにとって、餌となる人間の精気を得るためにはまず彼らの寝所に忍び込むことが必要だ。
昔はよかった。真夜中に人間が外を出歩くことは少なかったし、そもそも今と比べて明かりも少なく夜が長かった。
あてずっぽうに人家に入り込んでも、適度に健康、適度に性欲を持て余している若者にありつけた。
しかし今は違う。夜中でも街が煌々と明るくて、夜と昼間の境目などないようなものだ。
忌まわしいのは人間の生活リズムの多様化。夜も昼もなく働き、遊ぶ。せっかく家に忍び込んでも、肝心の住人が留守なんてこと、しょっちゅうだ。
腹をすかせたサキュバスたちは考えた。
従来の数打ちゃ当たる戦法では効率が悪い。初めから、食らいたい人間に目星をつけて後を付け、寝静まったところで忍び込んで確実に精気を搾取することにしたのだ。
狩りというものは柔軟性がものを言う。
人間の生活様式が変わったのなら、こちらも工夫していかなければ食いっぱぐれてしまう。
これは自然の摂理なのだ。
人混みの中を、速くもなく遅くもなく、小川を流れる葉のように何にも抗わずに歩を進める。
フードに隠れ表情は読み取れない。
しかし、市場で山と積まれた果実を品定めするような、鋭く光る瞳が人間たちに向けられていた。
今日から、この街が宍戸の狩り場となる。
棲み処である魔界から眺めていた頃にはわからなかった、ありとあらゆる欲望をごった煮したような人間の匂いに、舌なめずりをせずにはいられない。
その瞳に、銀色に光る髪が映った。
サキュバスやインキュバスには、生まれながらにして人間が童貞か処女か見分ける能力が備わっている。
性的な経験をしたことのない人間からは、生まれたままのエネルギーがそのまま噴き出している。
もとより、性交というものは生物同士の精気のやりとりであるわけだから、受け取ったとしても与えた分、どうしても本来持つエネルギーは目減りしてしまうし不純物が混じる。
それが一切ない童貞や処女の人間からは、より純度の高い精気を得ることができた。
もちろん、そっちの方がサキュバスやインキュバスにとって栄養価が高いのは言うまでもない。彼らが進化の過程で獲物の選別に特化していったのはなんら不思議ではなかった。
宍戸が目を付けた男は若くて健康な肉体を持ち、そして、童貞だった。
雑踏の中でも目立って見えたのはその人間の身長が高かったこともあるが、宍戸にはその男の精気が周りの人間たちと比べて格別にうまそうだと思えたのだ。
彼の名を、鳳長太郎という。
この春大学生になったばかりの青年だ。
今夜は入ったばかりのサークルで新入生歓迎会があり、終電間近のこの時間、駅に向かって急いでいるところだった。
宍戸には血色よく元気溌剌に見えた彼だったが、実のところ賑やかすぎる宴会に疲弊しへとへとだった。
ぎりぎりで滑り込んだ最終電車は酔っ払いや疲れたサラリーマンでごった返していて、余計に気が滅入ってうんざりさせられる。
電車の揺れと疲労で眠気に襲われそうになるたびに鳳は頭を振って必死にまぶたをこじ開け、ようやく住まうアパートにたどり着いた頃には夜中の二時を過ぎていた。
今すぐにもベッドにダイブしてしまいたい体を叱咤してシャワーを浴びたのは、全身にこびりついたタバコやアルコールや汗の匂いを洗い流してしまいたかったからだ。
体を横たえ眠りについたのは、それからまもなくのことだった。
その様子を外から、正確には向かいの一軒家の屋根の上から、切れ長の瞳が穴が開くほどじっくりと観察していた。
鳳の後をつけてきていた宍戸だ。
部屋の明かりが消えてからしばらく経ったころだろうか。
宍戸は屋根の上で立ち上がり、ゆっくりと被っていたフードを脱いだ。
月下にさらされた長髪はひとつに束ねられ、漆黒に艶めいている。
口角をキュッと引き上げ、蝙蝠のような翼を宵闇に広げた。
にゅるんと伸びた尻尾を揺らして屋根を蹴る。
ふわりと舞い上がったかと思いきや、瞬きをする間に空を切り、鳳の部屋のベランダに降り立った。
そっと窓ガラスに手を触れる。
悪魔に物理の法則など通用しない。
宍戸の体は音もたてずにガラスを通り抜け、いとも簡単に部屋の中への侵入を果たした。
見渡せばさほど広くはなく、ベッドにテレビにローテーブルといった、いわゆる話に聞く人間の部屋といった具合だ。
尻尾を揺らしながら鳳のベッドに乗り上げた宍戸は、布団に潜り込みその体を跨いで、すやすや眠る寝顔を見下ろした。
街から尾行している間は気にも留めなかったが、まだ少年の無垢さを残した目元と唇、しっかりとした体躯に対してなんともあどけない顔をしている。
覆いかぶさった宍戸は、規則的な寝息を感じられるほど近くに顔を寄せた。
気配を暗闇に溶け込ませ、鳳の呼吸に合わせて息を吸い、吐く。
繰り返し、繰り返し、呼吸のリズムを合わせて獲物と感覚を一体化させていくと、そのうちともに心拍数があがり、体温が上昇しはじめた。
鳳の頬が紅潮し、じんわりと汗が滲み出している。
宍戸は正しく手順にならい、鳳に術をかけていった。
サキュバスの誘惑とは、人間が持つ体の核、ツボや急所と呼ばれる部位を一つ一つ鈍らせ、媚薬を血液に溶かして全身に巡らせるような魔術だった。
人間の眠りの浅いうちが一番効きやすく、夢のふちですり寄るように感覚を掌握すれば、人間は抗うことも出来ずに勝手に発情を促されてしまう。
夢と現実の区別がつかなくなっている曖昧な意識は脆く、発情した人間はあっという間にサキュバスの虜になって自ら腰を振り快楽を求めだすのだ。
鳳の呼吸が乱れ始め、触れそうに近づいた宍戸の唇に熱い吐息がかかった。
あと少しで堕ちる、そう確信したときだった。
「んぅ……」
苦しそうに眉を寄せた鳳がまぶたを開いた。鈍らせたはずの意識が覚醒している。
「チッ」
宍戸は舌打ちし、術の失敗を悟った。
見知らぬ訪問者に驚いた鳳の目が大きく見開かれる。
その瞳を、金色に輝く瞳が見つめ返した。
サキュバスの瞳は、獲物に直接魔力を注ぎ込むときに強く発光する。
鳳は実力行使に出た宍戸の瞳をもろに見つめてしまい、体を自由に動かすことができなくなった。
心臓が多量の血液を送り出すようにどくりどくりと重く鼓動し、下腹部がもったりと熱を持ち始める。
確かめるまでもなく、痛いほどに勃起している。自分で慰めるときとは比べものにならないほど射精感が高まっていくのがわかって、鳳は恐怖を覚えた。
「そろそろいいかな」
体を起こした宍戸は鳳を見下ろして舌なめずりした。
あとは裸になって交合し、獲物の性器から栄養を吸い取ってしまえばいい。
さっさと済ませて次の狩りに出掛けなければ。朝までには魔界に戻らなくてはならない。
妖しく唇を引き上げた悪魔は、鳳の衣服を剥ぎ取ろうと手を伸ばした。
「っ! 何するんですか!」
突然、動けないはずの鳳が宍戸を跳ねのけた。
驚いた宍戸はベッドから転げ落ちてしまう。
魔力が効いているからか突き飛ばす力は強くなかったが、身動きが取れないはずと油断していたせいで不覚にもバランスを崩してしまったのだ。
「誰!? ど、泥棒!」
「泥棒? 俺が?」
宍戸の翼と尻尾が見えていないのだろうか。
部屋の中に現れた不審人物を泥棒と判断した鳳は、怯えて震える声を必死に荒らげて叫んだ。
「け、警察呼びますよ!」
ふらふらになりながらもベッドの端に身を寄せ、不埒者を睨みつけている。
サキュバスはひ弱な人間を鼻で笑った。
「ハッ! そんなもん呼んでも意味ねぇよ」
ベッドに飛び乗り鳳と距離を縮めた宍戸は、見せつけるように翼を大きく広げた。
真っ黒に艶光りし、雨傘のように鳳を覆う。
信じられないものを目の当たりにして二の句が継げずにいる鳳のあごを尻尾の先でくすぐって、悪魔は邪悪な笑みを浮かべた。
「俺は泥棒じゃない。おまえの精気を喰らいに来た悪魔だ」
「あ、あ、あく、ま」
「なんだおまえ、サキュバスを見るのは初めてか? ああ、そうか、童貞なら見たことあるわけねぇか」
「なっ、なんで、どっ、童貞って」
「ははっ、アホ面。まぁいい、ちょっと黙って食われてろ。なに、すぐに済む。おまえは気持ちよくなるだけだからよ」
宍戸の瞳が再び金色に輝いた。
奥底から燃え上がるように色づき、鳳に誘惑を仕掛ける。
しかしまたもや鳳は宍戸を押しのけ、必死の形相で叫んだ。
「そういうことは! 好きな人としかしちゃいけないんです!」
ベッドから転げ落ち尻もちをついた宍戸は、目に溢れんばかりの涙を溜めて拒む人間を信じられないまなざしで見つめた。
一度ならず二度までも、悪魔の誘惑が人間に効かないなんてことはありえない。
実戦経験がないにしても魔力の強さでならそこそこ自信のあった宍戸にとって、なんの力も持たない人間ごときに術が通用しないなんて屈辱以外のなにものでもなかった。
とある夜の不思議な出来事。
サキュバスと人間は最悪な出会いを果たした。
この出会いが、二人の運命を大きく変えることになる。
魔界。
「宍戸!」
「おっかえりぃ」
「あ? 岳人にジロー。なんだよ、おまえらも帰ってたのか」
「さっき戻ってきたとこ。ちょうどジローと会ってさ」
「いやー食った食った。今夜はもうおなかいっぱいだC」
「くそくそ! 俺は活きの悪いやつしか食えなかったぜ」
向日岳人と芥川慈郎は宍戸と幼いころから一緒に育った、いわゆる幼馴染のサキュバスだ。
「くそっ、もっと早く生まれてりゃ、俺だって……」
「ん? なんか言った?」
「……なんでもねぇ」
サキュバスには独り立ちする年齢というものがある。
子供のうちは人間界に行くことはおろか魔界を出ることを禁じられているサキュバスは、成人する年の誕生日を迎えてはじめて一人で人間界に降り立ち狩りをすることを許される。
人間界に行くことは新鮮な精気を摂取し魔力を高めるために必要不可欠なことであり、そして今日は待ちに待った宍戸の誕生日だった。
誕生日が早く、先に独り立ちした幼馴染たちに後れを取りたくない宍戸は、人間界に降り立つ日を今か今かと待ちわびていたのだ。
絶対に純度の高い精気を食らってやると、意気込みは十分だった。
それなのに、まさか初めて狩ろうとした人間に魔力が通じないなんて。
「で? どうだった? 初めての人間界は」
「いっぱいおいC精気、食えた?」
初めての狩りの話を聞こうと、二人は期待に満ちたまなざしを宍戸に浴びせた。
その視線をあからさまに不機嫌な表情で睨み返し、宍戸はパーカーのポケットに両手を突っ込んで吐き捨てるように呟いた。
「食えなかった」
「へ?」
「食えなかったって、人間を?」
「なんで? うまそうな人間を見つけらんなかったのか?」
「……じゃねぇ」
「ん?」
「見つけられなかったんじゃねぇよ!」
「じゃあ、なんで?」
「おまえなら人間なんか簡単に誘惑出来るだろ?」
「うるせぇ! 出来なかったんだよ!」
「「えぇ?」」
素っ頓狂な叫び声が二つこだました。
冗談だろうと笑い飛ばそうとした向日も、失敗を茶化してやろうとした芥川も、宍戸の心底苛立った態度に口をつぐむ。
幼馴染としての経験上、こういうときに下手に宍戸をつつくと仕返しが怖い。
それでも好奇心は抑えられず詳しい話を聞きたいと促すと、人間界でのいきさつを打ち明けた宍戸は不機嫌に眉をひそめ舌打ちした。
「くそ、なんで人間なんかに俺の力が通じねぇんだよ」
「うーん」
「なんでだ?」
幼馴染の二人は顔を見合わせて首をかしげている。
原因を考えてもわからないものはわからないし、まだサキュバスとしては未熟な三人の知恵を寄せ合っても正解を導くことは難しいだろう。
しかし、すでに狩りをし人間の精気を餌にしている芥川と向日は、宍戸よりも多少経験値が高いのは事実だ。
宍戸は恥を忍んで狩りのアドバイスを乞うことにした。
「アドバイスなんてないC」
「今まで何度か狩りに行ってるけど、抵抗した人間なんか一人もいなかったしな」
「みんな気持ちEって悦んでるよね」
「初物じゃなくても、一晩で三人も食えば腹いっぱいだな」
二人の体験談を聞きながら、宍戸はがっくりとうなだれた。
「じゃあなんだよ……失敗なんてするわけねぇってのかよ」
「なぁ、ジロー。今までサキュバスが人間を狩れなかったなんて話、聞いたことあるか?」
「ないC」
「だよなぁ」
「馬鹿にしやがって、おまえら……」
「へへっ、ごめんごめん」
「でもさー、そいつがだめなら別の人間を食えばよかったのに」
たとえ一人の人間を狩れなかったとしても、他にも人間は街中にごまんといる。
そう芥川に指摘され、宍戸は唇を突き出し不貞腐れた表情で「食わない」と答えた。
「「食わない?」」
「悔しいから食わない!」
「なんだよそれ」
「腹減らない?」
「だってよ、あいつ俺のこと突き飛ばしやがったんだぜ! 二回も!」
「人間でも骨のあるやつはいるんだなぁ」
「宍戸に喧嘩売るなんて度胸あるC」
「しかもよ、『好きな人としかしちゃいけない』なんて言いやがってよ。そんなルール聞いたことねぇよ」
「あーそれ知ってる! 人間がたまに言うやつ」
「んなこと言ったって、好きでもなんでもない俺たちに簡単に食われてんじゃねぇか」
なー!とゲラゲラ笑う二人を余所に、負けず嫌いの宍戸は決意を固めた。
「絶対あいつを食ってやる! このまま引き下がってられっかよ」
「えー、めんどくさそう。やめときなよー」
「そうだぜ。人間なんてどれを食っても同じなんだしさ」
熱くなりやすい性格が、宍戸の良いところでもあり悪いところでもある。
その上、頑固で負けん気が強くて意地っ張り。
目の前のことしか見えなくなる悪い癖がまた出た、と幼馴染たちは苦笑した。
「それに、誰でもいいから食べとかないと餓死しちゃうC」
人間界に降りられるようになったサキュバスは、それまで食事で事足りていた栄養補給では魔力の生成が追いつかなくなる。
定期的に人間の精気を喰らい補給することで、魔力を蓄え、生命を維持しているのだ。「誕生日になったばかりだし、まだこっちの食事で生きていける。足りなくなる前にあいつを食えばいいだけのことだろ」
「でたよ。ほんっと頑固者」
「やばくなるまえに適当に人間食うようにしろよ?」
こうなった宍戸に何を言っても無駄だと二人は知っている。
幼馴染たちは熱意を燃やす宍戸を置いて自宅へと帰って行った。
「絶対、食ってやるからな」
生まれつき、諦めは悪いほうだ。
この日から宍戸は毎晩のように鳳の部屋を訪れ、誘惑しては拒絶される日々を送るようになるのだった。
一方、こちらは人間界。
鳳は毎夜突然現れては破廉恥に体を求めてくる悪魔との戦いに明け暮れ、すっかり疲労困憊していた。
深刻な睡眠不足なのである。
学業やアルバイトに加え交流会と称した飲み会の連続でただでさえ疲れ切ってやっとのこと部屋までたどり着くのに、ようやく眠れるとベッドに入った瞬間にどこからともなくあの悪魔が現れ馬乗りにされるのだ。
何度拒んでも妖しく光る瞳に捉えられる。そのたびに全身全霊で跳ねのけているから、今のところ身は清いままだ。
だが抵抗すれば抵抗するほど、あの悪魔は躍起になって襲い掛かってきた。
執念とも言うべきか。
取っ組み合いになることもしばしばで、最後はいつも「ぜってー食ってやるからな!」と捨て台詞を吐いて暗闇に溶けるように消えていった。
中途半端にかけられた悪魔の術で体は火照るし、全力で抵抗をするものだから汗だくにはなるしで、風呂に入った意味がまったくなくなってしまうのもいただけない。
とにかく、鳳にとっては迷惑千万な話だった。
なんだってこんな、どこにでもいる普通の大学生なんかに執着するのだろう。
もっと綺麗な人や魅力的な人はたくさんいるというのに、自分はあの悪魔の好みの見た目をしているのだろうか、そんなのちっとも嬉しくない、と鳳は肺の空気を全部吐き出すかの如く長いため息をついた。
「はぁ~~~~」
「おい、辛気臭いため息をつくな。こっちまで気が滅入る」
「あ、日吉だ。どうしたの、こんなところで」
「大学生が大学にいちゃ悪いのか」
日吉若。幼少期からの友人で、鳳と同じ大学に籍を置く同級生だ。
たまたま通りかかったカフェテリアの片隅で一人うなだれる鳳を見つけ、声を掛けてきたのだ。
「なんだ、風邪でもひいたのか? 顔が悪いぞ」
「顔色、ね」
はぁ、と再びため息をついた鳳はここ数日の寝不足を訴えた。
「夜更かしするようなタイプだとは思わなかったが」
「したくてしてるんじゃないんだってば」
「はっきりしないやつだな」
気が長い方ではない。
うだうだと覇気のない顔でテーブルに突っ伏す友人を見限って、日吉は踵を返そうとした。
「あっ、待ってよ日吉!」
「……なんだ」
「日吉ってさ、あの、なんていうか」
「だからなんだ。さっさと言え」
「えっと、その」
「用がないなら帰る。俺は暇じゃないんだ」
「ごめん、言うから待ってってば!」
「なら早く言え」
「あの、さ、日吉って、オカルト……って言うの? お化けとか得意なんだよね?」
「オカルトとお化けを一緒くたにするな。お化けといっても幽霊と妖怪とではまったく種類が違って」
「えーっと、その話は今度ゆっくり聞くとして」
先に聞いてきたくせに話を遮るとはなんてヤツだと日吉は一瞬ムッとしたが、鳳の口から出る話題にしては意外過ぎて興味を惹かれた。
確か鳳はそういった類の話を苦手としていたのではなかったか。
そんな人間がわざわざオカルトを話題に出すなんてどういう風の吹き回しなのかと、日吉は鳳の話に耳を傾けることにした。
「サキュバスって知ってる?」
「サキュバス? 人間の精気を餌にする悪魔だろ? 夢魔とか淫魔とか言われるな」
「いんま?」
「淫らな悪魔ってことだ」
「みだら……」
「サキュバスがどうした」
「うん……あのね、馬鹿にしないで聞いてほしいんだけど、その……来るんだ。うちに。毎晩」
「……は?」
立ったまま鳳の話を聞いていた日吉は、おもむろに鳳の隣の椅子を引いた。
その目がらんらんと輝きだしたことに鳳は気づいていない。
「来るってどういうことだ?」
「初めて来たのは先週だったかな。眠ってたらなんかすごく熱くなってきて目が覚めたんだ。そしたら俺の上に知らない人が乗っかってて」
「それで? 食われたのか? どんな姿だった? 話したのか? 名前は?」
「そ、そんなにぐいぐい来ないでよ」
鳳に詰め寄る日吉は、普段の彼からは想像できないほど饒舌にまくし立てる。
それもそのはず、子どものころから不思議な現象やらUFOやらが大好きな日吉にとって、鳳の話は貴重な体験談なのだ。
「名前は知らない。でも自分のことをサキュバスだって言ってた。た、食べられたことは……ないよ」
「なに照れてんだ」
「だって! ……恥ずかしいだろ」
「それで、姿はどんなだった?」
「えっと、髪が黒くて長くて、猫みたいな目で、たまに金色に光るよ」
「あとは?」
「蝙蝠みたいな翼が生えてて、しっぽもあるかな」
しっぽか、そうか、と日吉はいつの間にかノートを取り出してメモし始めている。
「やっぱり噂通りサキュバスって美人なのか?」
「美人? うーん、どうだろ。美人といわれれば美人なのかな?」
「なんだ、はっきりしないな」
「だって男の人だし」
「男? だったらインキュバスじゃないのか?」
「インキュバス?」
「女を襲う男の悪魔だ。サキュバスは男を襲う女の悪魔」
「でもインキュバスとは言ってなかったよ」
「男を襲う男の悪魔もいるのか。なるほど。ということはインキュバスが男でサキュバスが女という定説自体が間違っているということに……どちらにもなれると聞いたこともあるし……もしかしたら食事方法によって分類されているという可能性も……」
「なにがなるほどなの? ねぇ、日吉? おーい」
鳳そっちのけでノートに考えを殴り書いていく日吉は、よほど悪魔に夢中と見える。
その悪魔のせいで健康不良に陥っている鳳には面白くない話だ。
「も~、相談しなきゃよかった」
「そんなことを言うな。寝不足はそのサキュバスが原因なんだろう? もっと話を聞かせてくれ。力になれるかもしれない」
おまえが心配なんだ、と日吉にしては珍しい笑顔で言われても、鳳の心にはまったく響いてこない。
だが話さないでいた方が厄介なことになることを長い付き合いから知っている鳳は、あらかたのことは全部話すことにした。
「はぁ。わかったよ。話すよ。その人が来た時にね」
「人じゃなくて悪魔だ。厳密にいえばサキュバスだ」
ビシッとボールペンを突きつけられ、鳳は鬱陶しさに眉根を寄せる。
「……サキュバスが来たときにね」
「ふむ」
「突き飛ばしちゃったんだ」
「なんてことを! あ、いや、続けろ」
友を心配する気持ちよりも悪魔への興味の方が大きい様子を隠しきれない日吉は、じっとりした鳳の視線にひとつ咳ばらいした。
「それで初めの日は帰って行ったんだけど、なぜかそれから毎晩来るようになっちゃってさ」
「来るたびに追い払ってるってわけか」
「力づくで追い出してるから疲れるし、睡眠時間は削られるし。ねぇ、なにか対策とかないの? サキュバスが苦手なものとかさ。日吉なら知ってるんじゃない?」
「悪魔祓いには聖水や十字架を使ったりするが、サキュバスにも効くかどうかはわからないな」
「ニンニクは?」
「それが効くのはドラキュラだろう」
「そっか……」
「まぁ、試してみる価値はあるかもしれないがな」
聖水はどうやったら手に入るのかわからないが、ニンニクなら帰りにスーパーに寄れば簡単に購入できそうだ。
鳳はスマートフォンのメモ機能に、ニンニク、と書き込んだ。
「しかし、なぜそのサキュバスは鳳にこだわるんだ?」
「わからないんだよ……あっ」
「どうした。心当たりがあるのか?」
「あ、いや、なんでもない。気のせい」
童貞であることを言い当てられたことは黙っておくことにした。
もしかしたらそれが原因なのかもしれないが、日吉にデリケートな話をするのはなんとなく気恥ずかしい。
「あのさ、サキュバスが俺を食べるって言うのは、つまりその……そういうことなんだよね?」
「ああ、サキュバスもインキュバスも人間を犯す。性交が食事だからな」
「そっか……もし、もしもだよ? 食べられちゃったら、俺はどうなるの?」
「人間の精気を吸い取るらしいからな。元気がなくなるか、もしくは」
「もしくは?」
「干からびて死ぬんじゃないか?」
「死ぬの!?」
「さぁ? 聞いてみればいいじゃないか。今夜もそのサキュバスは来るんだろ?」
「多分、来ると思う……やだよ、俺、死にたくないよ」
少々脅かしすぎたようだ。
日吉は泣きべそをかき始めた鳳に持っていた飴をやった。
罪悪感でも謝罪でもない。鳳を泣き止ませるための飴は、二人にとって子どものころからの習慣だった。
「子ども扱いしないでよ」
「大学生にもなって泣くやつがあるか」
鳳は日吉の飴を力強く噛み砕いた。
まだまだ話し足りない様子の日吉に今度またサキュバスの話を聞かせることを約束して、鳳は帰路についた。
聖水を手に入れることは出来なかったが、皿に塩を盛り、それと一緒に買ってきたニンニクをテーブルに並べてみる。
これらが魔除けになって安眠できることを祈り床に就いたのも束の間、腹の上にずっしりと感じる重みで悪魔祓いの失敗を知った。
「だめだったか」
「あぁ?」
「せっかくニンニク買ってきたのに」
「ニンニクだぁ?」
「あなたが苦手かもと思って並べて置いたんですけど、その様子だと苦手じゃないんですね」
鳳が悲しい瞳で見つめる先を振り返った宍戸は、テーブルの上に転がるニンニクと山盛りの塩をみとめた。
「こういうのは人間の気休めでしかないぜ。つーかドラキュラじゃねぇんだから」
「ははっ、ですよね」
鳳は乾いた声で己を笑った。
徒労感からか眠気が一気に襲い掛かり、このまま眠ってしまいたいのに腹の上の悪魔はどいてくれそうになかった。
「おまえいつも十字架つけてるから、てっきりそれも悪魔祓いのつもりなのかと思ってたぜ」
「あ、そういえばつけてた」
「俺に全然効いてねぇってわかってんだと思ってたけど」
「これはただのクロスモチーフのペンダントですよ。神様の力なんてありません」
「フン。神だかなんだか知らねぇけど、会ったことねぇヤツにビビる俺じゃねぇんだよ。っつーわけで、今夜こそ食わせろ」
大きく広がる翼と金色の瞳。
今夜もこの悪魔と取っ組み合いの喧嘩かと諦めかけたとき、昼間話した日吉の言葉が鳳の頭をよぎった。
「ちょ、ちょっと待って!」
「あ?」
「今日あなたのことを友達に聞きました!」
大声を上げた鳳に、一瞬宍戸の瞳の光が弱まった。
その隙をついて鳳は起き上がり、宍戸を押しのけ距離を取る。
「友達に、悪魔とかそういうのに詳しい子がいて」
「へぇ」
ニヤリと不敵に笑む宍戸は翼を閉じようとしない。
まだ臨戦態勢であることが伺え、鳳は術をかけられても耐えられるように腹の底に力を入れた。
「あなたみたいなサキュバスは、人間と性交することが目的だって」
「性交ねぇ。人間はセックスって言うんだろ? 俺たちにとっては食事だ」
「淫らなことをして精気を吸い取るって」
「ああ、その通り。そいつ、よく知ってんな」
「人間は食料なんですか?」
「まーそうなるな」
「でも精気って、人間の生きるエネルギーみたいなものですよね?」
「そうだな」
「じゃあ、それを吸い取られた人間はどうなるんですか?」
「すげー気持ちいいらしいぜ! 天国のようだってよ。悪魔にいいようにされてんのに天国ってな。笑えるぜ」
宍戸は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「そういういうことじゃなくて! 人間は、死んじゃうんですか?」
「死ぬ?」
「俺を殺しにきたんですか」
「殺す? なんで?」
「人間は食料って」
「ああ。おまえら人間は俺たちの食料だ」
「やっぱり殺すんだ!」
「だからなんでだよ! まぁ、確かに最後は死ぬほどイイって泣いてよがるらしいけど」
「ひぃっ」
体を震え上がらせて宍戸からさらに距離を取った鳳だが、一人暮らしの狭い部屋ではあっという間に詰め寄られてしまうだろう。
鳳の脳裡にこの数日間のことが走馬灯のように蘇った。
どうしてこんな得体のしれない者と取っ組み合いの喧嘩なんてしてしまったんだろう。
自分の命を脅かす存在だと、どうして考えが及ばなかったのか。
宍戸を怒らせるのに十分なことをしてきてしまったと己の行動を悔いたが、抵抗せずにただ食べられるつもりもない。
鳳は見よう見まねでファイティングポーズを取った。
涙目で唇を噛み締め、へっぴり腰の無様な姿だ。
威嚇にすらなっていない。
だが、悪魔を牽制する効果は少なからずあった。
怯えながらも立ち向かってこようとする人間を目の前にして、宍戸はその滑稽さを笑うどころか、憐れにすら思えてきのだ。
悪魔にだって他人を不憫に思う心くらいある。
もっといえば、鳳という男はときどき無性に庇護欲に駆られるまなざしを向けてくることがあって、うっかり手加減してやりたくなってしまったりした。
悪魔が懐柔されるというのも情けない話だが、誤解を解いてあげたくなった宍戸は翼を閉じてゆっくりと鳳に近づいた。
「別に骨ごと食おうってんじゃねぇぞ」
「ち、違うんですか?」
もう瞳も光っていない。
悪魔に戦う意思がないと判断した鳳は、恐る恐るこぶしを下した。
「毎晩毎晩何人も殺してたら餌がなくなっちまうじゃねぇか」
「それも……そうですね」
「俺たちの狩りはキャッチアンドリリースなんだよ」
「キャッチされたくないんですけど」
「無理だな。だっておまえ、うまそうなんだもん」
ずいっと体を寄せてきた宍戸を避けようと鳳は後ずさりした。
だがすぐ壁に行きついてしまう。
これ以上逃げ場がなくなってしまった鳳は、宍戸の瞳の魔術を恐れぎゅっとまぶたを閉じた。
ぽろり、溜まっていた涙がしずくとなって頬を伝う。
それを見た宍戸は、本能的に食欲を刺激され唾を飲み込んだ。
人間の涙を味わったことはないが、透明に零れ落ちる露がとても甘そうに思えたのだ。
「やっぱおまえ、うまそうだわ」
あごまで垂れてきたしずくを、宍戸の舌がすくった。
「わっ」
湿ったあたたかさに驚き肩を揺らした鳳がまぶたを開くと、至近距離に宍戸の顔があってまた驚いてしまう。
鳳の胸に手をつき背伸びした宍戸は、今度は頬に伝う涙に舌を這わせ、べろりと舐め上げた。
思った通りほのかに甘く、もっと、もっとと、ひとしずくも零すまいと舌を伸ばす。
「ちょっと、なにするんですか!」
「味見」
ぺろぺろと舐めてくる舌がくすぐったくて鳳は身を捩った。
「うめぇなぁ。涙でこれなら、腹ん中で食ったら、もっとずっとうまいんだろうなぁ。なぁ、その気になってこねぇ? いっぺん、俺に食われてみろよ。最高の夢を見させてやるからさ」
唇が触れ合いそうな距離で悪魔が囁く。
甘く優しい声色は溶け込むように耳になじみ、言葉の誘惑が鳳を揺さぶった。
しかし、そう簡単に食べられるわけにはいかない。
「いやです!」
力いっぱい宍戸の胸を押して拒絶すると、よろけた悪魔は大きく舌打ちして襲い掛かってきた。
服を掴んでベッドに押し倒そうとしてくる。
その腕を引き離そうと、鳳はジタバタと藻掻いた。
結局いつも通りの取っ組み合いだ。
子供のころからまともに喧嘩などしたことのなかった鳳も、この数日でだいぶ鍛えられた。
胸倉を掴んできた宍戸のひたいを押しやれば、ドンッとこぶしで肩を弾かれ二人の体は離れた。
「あぁもう! なんなんだよおまえ!」
「こっちのセリフですよ! 毎晩毎晩、もういい加減にしてください!」
「そろそろ折れろよ! 一回くらいいいだろ!」
「折れるもなにも、こういうことは好きな人としかしちゃいけないんです!」
鳳の叫び声が部屋にこだまする。
二人とも肩で荒い呼吸をくりかえしながら睨み合った。
服はよれ、髪はぼさぼさ。まるで子どもの喧嘩だ。
殴り合いにならないのは、宍戸が餌である鳳を痛めつけて鮮度を落としたくないからというだけのことだった。
「またかよ。好きな人、好きな人って。なんだそれ、腹の足しになんのか? 人間なんて誰とでもヤれる種族だろ。俺のダチなんか何人もの人間を食ってきたけど、誰一人抵抗しなかったって言ってたぜ」
魔界で聞いた話では、人間が肉体的快楽のために性交することは特別なことではなかったはずだ。
そこにどんな感情が生まれているかなんて、悪魔には微塵も関係ないし興味もない。
快楽こそがサキュバスが人間に与える最大の代価であり、人間は経験できないほどの喜悦を得るのだから十分すぎるほどフェアな取引であるはずだ。
それなのになぜ鳳が拒み続けるのか、宍戸にはまったく理解できなかった。
「悪魔になんか、わかりませんよ」
夜の底のような声で鳳は怒りを露わにした。
はぁ、と先にため息をついたのは宍戸だった。
また今夜も停戦だ。
翼を広げた悪魔は窓ガラスをすり抜けると、振り返ることなくベランダから宵闇へと飛び去った。
「まーた食えなかったのかよ宍戸!」
「激ダサだC」
魔界に戻った宍戸は、憂さ晴らしにどんよりと雲の重い空を飛んでいた。
それを幼馴染二人に目ざとく見つけられ、飲み屋に引っ張りこまれたのはつい先刻。
店の中では、姿かたちが様々な悪魔たちがあちこちでどんちゃん騒ぎだ。
バーと言えば聞こえがいいが海賊の酒場のように無法地帯極まりない空間で、宍戸はからかってくる二人のニヤついた顔を交互に睨みつけ酒を煽った。
「うるせぇ。そのうち食ってやるから今日のところは勘弁してやったんだよ」
「人間に拒まれ続けてるって話、本当だったんだ。あんまり意地張ってると干からびてしまうよ?」
頭上から降ってきた涼し気な声に顔を上げると、しばらく会っていなかった旧友の滝萩之介が立っていた。
「あれ~滝だC! こんなとこで何やってんの?」
「先月からここでバイトしてるんだ。ジロー、久しぶりだね。岳人にはこの前ここで会ったよね」
「あっ、バカ、それは内緒だって!」
「ほぉ~? なんで滝が俺の狩りのこと知ってんのかと思ったら、おまえがバラしたのか岳人!」
「ごめんって~! 滝にみんな元気かって聞かれたから、ついうっかり」
「ふふ、変わってないね、三人とも」
滝はサキュバスではないが少々変わったところのある悪魔で、食料や誑かす対象としてではなく研究対象として人間に興味を持っていた。
魔界の研究室なるものに所属しており、人間の行動について日々研鑽を積んでいる。「それにしても、どうして宍戸はその子のことを食べられずにいるの? おまえの魔力なら大抵の人間を虜にすることくらい造作もないだろ」
「それがさー、聞いてよ。その人間ってば、『好きな人』とじゃないとイイコトしたくないんだって」
「へぇ。しっかりした子じゃないか」
「しっかり? あいつが? なんで?」
このテーブルへは注文を取りに来たはずの滝だったが、きょとんとした顔を三つ向けられ、やれやれといった様子で首をすくめた。
「これだから人間のことを何もわかっていない悪魔はデリカシーに欠けるよね」
「なんだと! 馬鹿にすんのか?」
「滝の人間贔屓も変わってねぇな」
「ねぇねぇ、なんで? なんでなの? 滝~、俺にも教えてほC」
三人三様の反応を懐かしみながら、滝は人間の心理について得意げに語りだした。
「いい? 人間ってのは俺たち悪魔よりも、ずっと繊細に出来てるんだ。気分一つで体調を悪くするし、ちょっと落ち込むことがあっただけで死んでしまおうとしたりする」
「うへぇ、なにそれ~。楽しいことだけ考えて生きりゃいいじゃん」
「岳人が人間だったら長生きしそうだね。でね、人間にとって生きる上でとても重要なものの一つに、恋愛というものがある」
「「「れんあい?」」」
「そう、恋愛。人間ってのは恋愛しないと、結婚っていうパートナーとの契約ができないし、子どもを産むことができない生き物なんだ。で、その恋愛ってのは、人を好きになるってことから始まるんだよ」
「げー、めんどくさそう」
「そう、めんどくさいんだよ。しかも体を繋げる行為は彼らにとっては高難易度の、いわば恋愛のラスボスみたいなものだ。サキュバスのおまえたちみたいに、出会ってすぐ性交とはいかない」
「なんか俺たち、馬鹿にされてる?」
「おい滝、早く結論を言えよ。なんで『好きな人』としかしないって言ってるあいつがしっかりしてるんだ?」
苛立ち始めた宍戸が滝をせっつく。
「つまりね、好きな人っていうのは、人生のパートナーになる可能性がある人のことを言うんだ。その人に一生を捧げるんだよ。それくらい覚悟をもって選んだ人としか体を繋げない、とその子は言ってるんだ。な、しっかりしてるだろ?」
「ちょっと気持ちいいコトするだけなのに、そんな先のことまで考えなきゃいけねーのか?」
宍戸は滝の話を驚愕の表情で聞いていた。
「えー、やだなぁ俺。難しいこと考えたくないC」
「宍戸ぉ、やめとけよ。そんなやつ放っといてさ、俺が食った人間で一番うまかったやつ教えてやるから」
「そうだよ。俺も紹介するC!」
向日と芥川は幼馴染の力になりたくてどうにか励まそうとしたのだが、ここでも頑固者は折れようとはしなかった。
宍戸には引くに引けないプライドがあったのだ。
「なら、俺を『好き』にさせればいいんだな?」
「「「は?」」」
「あいつが俺のことを『好き』になれば食えるんだろ? だったら簡単だ」
突拍子もない発言に呆れかえる三人をよそに、宍戸は不遜に酒をあおった。
「簡単っていうけど宍戸、本当に『好き』の意味わかってる?」
頭痛がするといった様子でひたいを指で押さえながら滝が問う。
「さあ? でも多分大丈夫だろ」
「はぁ……これだから単細胞は」
「てめぇ、俺のことが気に食わないとすぐに単細胞って言うのやめろ」
「ねぇねぇ滝ぃ。人間はなんで誰かを『好き』になるの?」
「それがわかんねぇと宍戸はなんも出来ないんじゃねぇの?」
さながら教師と生徒のように、向日と芥川は滝を見上げた。
「うーん、なんでだろうねぇ?」
「なんだよ、わかんねぇのかよ」
「でも好きな人にどんなことをするかは知ってるよ」
滝が人差し指をひと振りすると、指先の空間が歪み一冊のスクラップブックが現れた。
「これ、帰るときまで貸しててあげるから読んでみて。人間界から持ってきたマンガってやつから切り抜いたんだ」
酒やつまみを押しのけてテーブルの上に広げられたそれには、様々な漫画から切り抜かれたシーンが所狭しと貼り付けられていた。
そのどれもが恋愛をテーマにした作品のもので、キャラクターが想い人に恋心を抱くシーンばかり選りすぐられている。
人間の文化に興味など持ったことのなかったサキュバスの三人にとっては、これが生まれて初めての美術鑑賞だった。
「すっげー! なにこれたのC!」
「ジロー、貴重な資料なんだから汚さないでよ。宍戸はこれ読んで勉強するように。岳人、ドリンクのおかわりは? まだいい? じゃあ俺は仕事があるから」
ひらひらと手を振りながら店内の喧噪に消えていった滝を見送り、三人はひたいを突き合わせてスクラップブックを覗き込んだ。ちなみに三人とも人間の文字は読めない。滝が書き込んでくれていた魔界の文字を読んでいる。
切り抜きに描かれている人間たちはみな表情豊かに、物を贈り合ったり、好きだと連呼したり、頬を染め愛を囁いている。
瞳をらんらんと輝かせ興味津々でページを繰る芥川に対して、宍戸と向日は何がいいのかさっぱりわからないといった様子で首を傾げながら読み進めた。
いまいち理解はできないがなんとなく雰囲気を掴めてきたところで、芥川が一つの切り抜きを指さした。
「ねぇねぇ、これ見て。嫌いって言ってるのに抱き合ってる」
そこには、涙を流しながら抱き合う男女がお互いの想いを通じ合わせる瞬間が描かれていた。
嫌い、だけど好き。そう書かれた文字に三人は頭をひねる。
「嫌いなのに好き? どういうことだ?」
「考えてることと逆のことしか言えない呪いにかかってんのか?」
「それって天邪鬼の呪いじゃん! なつかC! ちっちゃいころ、いたずらに使ってよく怒られたなぁ」
「でも人間が使える呪いじゃないだろ」
「もしかして、人間は『嫌い』も『好き』って意味で使うのか?」
「だったら宍戸が食べられずにいる人間もさ、宍戸のこと嫌がってるように見えて実は好きだったりして!」
「「それだ!」」
残念ながら、滝の助言は三人に正しく伝わらなかったようだ。
人間の繊細さについて学んでほしかったというのに、まったくお門違いな結論に至ってしまったサキュバスたちである。
答えが分かれば行動あるのみ、と宍戸は店をあとにし人間界へ直行した。
鳳の部屋に忍び込み、馬乗りになって叩き起こす。
「おまえ、本当は俺のこと好きなんだろ!」
寝入りばなに頓珍漢なことを叫ばれた鳳は、不機嫌な様子を隠そうともせずに「そんなわけないでしょ!」と拒絶しいつものように全力で抵抗した。
出立してから三十分もせずに店に戻ってきた宍戸は、
「あいつの『嫌い』は『嫌い』って意味だ!」
と酔いで気持ち良くなっていた幼馴染たちに悪態をつき、酒を煽った。
鳳に抵抗されたときに切れた口の中が、強いアルコールに虚しく傷んだ。
「はぁ~」
背を丸めながら歩く鳳は、目の下のくまを一層濃くして息を吐いた。
悪魔の来訪は途切れることなく毎晩続いており、寝不足から今日も眠気に襲われている。
せっかくの快晴も、太陽光が体力を奪う。
鳳は日差しを避けるようにして校舎脇の木陰へ逃げ込んだ。
人通りの少ないそこは、最近見つけた鳳の昼寝スポットだ。
次の授業までは時間があるし仮眠して少しでも体を休めようと、ひんやりと心地いい木のベンチに寝転んでまぶたを閉じた。
「鳳! こんなところにいたのか。探したぞ」
遠くから聞こえてくるのは日吉の弾んだ声。
「起きろ、早く悪魔の話を聞かせてくれ。最近忙しくてなかなかおまえに会えなかったからな。あれからどうなった? 昨日も来たんだろ? なにか話したか? ニンニクは効いたか?」
まだ鳳は横たわっているというのに、日吉は構わず矢継ぎ早に質問してくる。
普段の様子からは想像できないほどうきうきしている友人を前に、このまま寝たふりを続けるのは難しそうだと観念して鳳は起き上がった。
すかさず隣に腰かけてきた日吉は、ノートを開いて聞き込みを開始しようとしている。
はぁ、とまたひとつため息をついて、鳳はここ数日の悪魔の様子を話し始めた。
「毎晩くるよ。少し話すようになったかな。ニンニクは全然効かなかったから食べようと思ってるんけど、どう料理していいのかわかんなくて悩んでるとこ。塩も効かなかった。気休めでしかないんだって」
自炊はするが得意ではない。
鳳はキッチンに鎮座するニンニクの扱いに手をこまねいていた。
「悪霊退散に塩は効くらしいんだが……悪魔は別なのか」
日吉はノートに書かれた「ニンニク」と「塩」にバツをつけた。
「あとは? なにか話したか?」
「うーん……」
「なんだ」
「最近ね、変なことばかりしてくるっていうか……」
「変なこと? 詳しく聞かせろ」
「そんなに期待に満ちた目で俺を見ないでよ。そうだなぁ、大したことじゃないんだけど、ミミズが這ったような字で書かれた手紙を渡されたり、いろんな絵の具を混ぜたみたいな変な色の石を見せられたり、干からびたニラみたいな花を持ってこられたり……」
「なんだそれ! 俺も欲しい! くれ!」
「えー、気味が悪いから全部持って帰ってもらったよ」
「チッ」
「怒らないでよぉ」
鳳からすると意味の分からない行動なのだが、実のところ、これらは宍戸なりのアプローチだった。
アプローチと言っても、滝に見せてもらった切り抜きの見様見真似。
漫画の中のキャラクターたちは、相手に好きになってもらうためにラブレターや花を贈ったり、美しいものを一緒に見て感動を共有し合ったりといった恋の駆け引きを行っていた。
それを真似したというわけだ。
だが、手紙を書いても悪魔の文字を人間が読めるわけがないし、魔界では貴重な鉱石も人間の目には禍々しくしか映らない。花に至っては魔界の植物自体が美しさとはかけ離れた見てくれをしていた。
そもそも、贈り物を用意したところでそこに好意が含まれていなければ意味がない。
相手を好いていて、自分のことも好きになってもらいたいという気持ちが欠如していることに宍戸自身が気づかなければ、いくら贈り物をしたところで徒労に終わるということを本人も助言すべき幼馴染たちも誰一人として理解してはいなかった。
そのせいで、鳳には宍戸の行動が謎めいたものとしてしか映らなかったのである。
「あ、でも花みたいなものだけは自分で持ち帰るって言い出したな」
「わざわざ持ってきたのにか?」
「うん。なんか、『人間には毒かもしれねぇから』って」
宍戸から差し出された花を受け取るべきか躊躇していた鳳を、宍戸は自ら制止して持ち帰った。
「もらっておけばよかったんだ。見てみたかったのに」
「え~、やだよ」
「でも、悪意があるわけじゃないんだな、そいつ」
「え?」
「鳳をただ食い殺そうとしているだけなら、魔界のものが人の体によくないかもしれないなんて言わないだろ。むしろ毒にあたって弱ったところを食ってしまえばいい」
「たしかにそうだね……あ、人間のことは殺さないって言ってたよ。精気だけもらうんだって」
「ほぉ。サキュバスは人間を殺しはしない……と。というか前から思っていたんだが、なんの神通力も持っていない鳳に毎度毎度簡単に追い払われるサキュバスってのもおかしくないか? おまえが追い返してるんじゃなくて、そいつが自発的に帰ってくれているとしか思えない」
「本当は俺に勝てる強い力があるのに、その力を使わないでいてくれてるってこと?」
「あぁ」
「でも、それにしては毎晩本気でやりあってるような……」
「実は手加減してくれてるんじゃないか?」
そうなのだろうか。
日吉のいうことは一理あるが、今までの防衛戦を振り返るに、自分も必死だが相手も必死であることが取っ組み合いの力強さ具合から感じ取れた。
鳳の方があの悪魔より勝っているとは思えないが、かといって彼に秘められた力があるともにわかには信じがたい。
しかし、ここ数日の宍戸の行動は自分を懐柔しようとしているようにも思えて、鳳は静かに混乱していた。
「実際にサキュバスの誘惑を受けた体験を聞けたら、資料としては完璧なんだがな」
「しないよ!」
「死なないなら一度くらい。なにも初体験ってわけでもないだろ?」
「……」
「そうなのか?」
「ううううるさいな! 日吉はどうなんだよ!」
「おまえに答える義理はないな」
「いじわる」
「ふん」
顔を真っ赤にする鳳を横目で見やって、日吉はノートに「体験談、要観察」と書き込んだ。
その夜も悪魔はやってきた。
眠っていた鳳に乗っかり、手には怪しげな小箱を携えている。
「……えっと、今日は何を持ってきたんですか?」
「チョコレートだ」
「チョコレート?」
不審に思いながら起き上がった鳳はまず宍戸の瞳を警戒したが、すぐには仕掛けてこないようだ。
小箱のふたを開けた宍戸が鳳に突き出すと、中には歪な形をした黒い物体が入っており、なんとモワモワと煙が立っていた。
「なっ! ちょっとこれ燃えてますよ! しかも酸っぱい匂い!」
「燃えてねぇよ。こういうもんなんだ」
「煙が出てる食べ物なんて聞いたことないんですけど。しかもこれ、チョコレートじゃないです」
「違うのか?」
「チョコレートは甘い匂いがするんです。これはどう見ても甘そうじゃない」
「あれって甘いのか」
「知らないで作ってきたんですか?」
「なんか黒くて変な形の食べ物だなとは思ったけど」
「変な形?」
ベッドの上に小箱を置いた宍戸は、胸の前で空気を掴むように指先を丸めると、そのまま両方の手を合わせて形を作った。
「それはハートですね」
「ハート?」
「可愛い形です」
「そうだったのか」
鳳は改めて小箱の中を覗き込んだ。
この歪にかたどられた物体はハートのチョコレートを模したものだったらしい。
まさかとは思うが自分で作ってきたのだろうか。
今まで持ってきたものといい、どうしてそこまでして贈りたがるのだろうと謎は深まるばかりだ。
「これは失敗なのか?」
「うーんと、ハートのチョコレートを作りたかったんだとしたら失敗ですね」
「あぁもう、こういうチマチマしたことは好きじゃねぇんだよ。でも滝が作ってみろって言うから」
「え?」
「俺のダチがよぉ~……あ、いや、こっちの話だ」
ふたを閉じる宍戸の尻尾が元気なくしなだれている。
どこか落胆して見える悪魔は、ベッドの上に立ち上がると翼を広げ飛び立とうとした。
「あ、あの!」
その腕を掴んだのは鳳だ。
引き留められた宍戸も、引き留めた鳳も、意外な反応に驚き目を丸くした。
「ど、どうしたんだよ」
「どうしたんでしょう?」
「おまえが掴んだんだろ」
「す、すみません」
手を放した鳳は気まずさに視線を泳がせた。
追い返すことばかりしてきたというのに、どうして引き留めるなんてことをしてしまったのだろう。
不都合な状況を自ら作ってしまったことにパニックに陥りそうになる。
「なんだよ、食わせてくれんの?」
「それはだめです」
「チッ。だったらなんだよ。狩りが出来ねぇならここにいてもしょうがねぇんだけど」
「あ、あの」
「なに」
「ちょっと、お話しませんか?」
「おはなし?」
「毎晩あなたに会っているのに、あなたのことを何も知らないなと思って」
視線を泳がせながら話す人間を見下ろしながら、宍戸はその真意を探ろうとした。
悪魔のことを知って何になるというのか。
よもや、いつかのように悪魔祓いをしようと企んでいるのではあるまいか。
しかし思考を巡らせても鳳の本心はわからなかった。
ええいままよとベッドに腰を下ろした宍戸は、鳳に向き合い口を開いた。
「俺のことを知ってどうするんだ」
「どうって、どうもしませんよ。ただ知りたいと思っただけで」
「それだけか?」
「はい」
まっすぐな瞳が嘘をついているとは思えず、宍戸は鳳の好きにさせることにした。
「何が知りたい?」
「えっと、どうして毎晩俺のところに来るんですか? サキュバスって人間なら誰でも食料になるんでしょ? 他の人のところに行けばいいじゃないですか」
「まぁ、そうだな」
「だったらどうして」
「……負けた気がするから」
「は?」
「おまえは俺が人間界に来て、初めて目を付けた獲物だったんだよ」
「はぁ……」
「なのに、食おうとしたら魔力は効かねぇし、調子が悪かっただけだと思って次の日も来てみたら追い払われるし、そんなの、なんか、悔しいじゃねぇか」
「えっ? 悔しいって、理由はそれだけですか?」
「それだけって言うけどな! 俺は魔界じゃ誰かに簡単に負けたりしねぇんだぞ! なのに人間なんかに俺の力が通用しないなんて、そんなの絶対信じねぇ」
「つまり、俺の精気を食べるまで来るのをやめない、と」
「当たり前だ」
「そんな横暴な!」
「ハッ! 悪魔だからな! それに、おまえはどの人間よりもうまそうなんだから、きっと俺の魔力もグワッと強くなるはずだぜ」
艶やかにも見える邪悪な笑みで舌なめずりする宍戸は、どこからどう見ても正真正銘の悪魔だ。
緊張にゴクリと喉を鳴らした鳳は、迫力に気圧されそうになる自分を叱咤した。
「でも俺は抵抗し続けますよ。おなか空くんじゃありません?」
「問題はそこだ。だが俺は解決策を見出した」
「解決策?」
「おまえは好きな人としかセックスしないって言ったな?」
「えぇ、まぁ」
「だから、俺を『好き』になってもらうことにした」
「は?」
「要はお前が俺を好きになりさえすれば、俺はおまえを存分に食っていいんだろ? だからダチに教わって人間について勉強したんだ。人間は恋ってやつをするんだろ? 恋するやつらはみんな物を渡すらしいな。どうだ。俺のこと好きになったか?」
「……まさかとは思いますけど、今まで変なもの持ってきてたのって、俺への贈り物だったんですか?」
「おぅ」
あまりにも突拍子のない宍戸の考えに、鳳は呆れてものが言えなくなってしまった。
この悪魔は本気でそんなことが出来ると思っていっているのだろうか。
散々迷惑をかけておいて、被害に苦しむ人間がどこのものとも知れぬ悪魔を好きになるなど。
「で、どうなんだよ。俺のこと『好き』になっただろ?」
「なるわけないでしょ」
「なんで?」
「なんでって……そんなこともわからないで、あなたは……」
不思議そうに首をかしげる悪魔が、いっそ不憫に思えてきた鳳である。
このサキュバスは人間の心どころか、相手と好意を寄せあうということ自体を根本的にわかっていない。
思いやって、慈しんで、大事に大切に向き合っていきたい。
そんな、鳳の中にあたりまえのように存在している恋の定義は、目の前の悪魔には理解できないどころか存在すら認知されていないらしい。
あげく、彼は何の疑いもなく鳳から好意を寄せられると確信している。
傲慢としか言えない思考だが、人間が誰しも抱く恋愛感情というものが彼の中にないのだとしたら、鳳が叱責し説明したところで少しもわかってはもらえないだろう。
「おまえ、名前は?」
尻尾の先を鳳に向けて、宍戸がたずねた。
このとき初めて、鳳は自分たちが自己紹介すらしていない間柄だったということに気が付いた。
警戒するべきかとも思ったが、すでに住んでいる場所を知られている上、鍵も無意味とあっては今更名前を隠したところで防犯対策にはならないだろう。
「俺は鳳長太郎と言います。苗字が鳳で、名前が長太郎」
「ちょうたろう、か」
「あなたは?」
「俺は宍戸亮」
「人間みたいな名前なんですね」
もっとおどろおどろしい名前なのかと思っていた鳳は拍子抜けしてしまった。
「宍戸さんは明日もうちに来るんですか?」
「もちろん」
「だったら何も持ってこないでくださいね」
「え? いらないのか?」
「そういう努力は気持ちが伴っていないとだめなんですよ」
「?」
「わからないか。プレゼントってね、相手を想う気持ちが詰まってないとプレゼントって言わないんですよ。今日持ってきたハート型のチョコレートだって、日本では好きな人に告白する日ってのがあって、その時に作るものなんです。バレンタインデーって言うんですけど」
「へー、そうなのか」
わかっているのか、いないのか。
悪魔のくせに素直に話を聞く姿勢でいるから調子が狂う。
「ちなみにその日は俺の誕生日でもあります」
「ふーん。俺はおまえに会った日が誕生日だった」
「そうだったんですか? 悪魔にも誕生日があるんだ」
「あるに決まってんだろ。サキュバスはな、成人する年の誕生日にやっと人間界に行くことを許されるんだ。この日から本格的に狩りをするようになって、徐々に人間の精気だけが食料になっていく」
「あの日が初めての人間界だったってわけですか。じゃあまさかとは思いますけど、初めて狩ろうとした人間って、俺?」
「よくわかったな。その通り」
「だからか……狩りに失敗したから躍起になって俺のことを狙っているんですね?」
宍戸は口端を上げ、四つん這いで鳳に近寄った。
警戒する鳳の目を覗き込んで、瞳を光らせる。
鳳は咄嗟にまぶたを硬く閉じた。
その刹那、小さくベッドが揺れ、気配が消えた。
目を開いてみるともうすでに宍戸の姿はなく、まだ話の途中だというのに気まぐれにも帰って行ってしまったようだ。
疲れる取っ組み合いをしなくて済んだ安堵にほっと肩の力が抜けた鳳は、もう一度体を横たえ布団を被った。
明日も早い。
睡眠不足の鳳が夢の中へと旅立つのに、そう時間はかからなかった。
この夜から、種族の違う二人は会話でお互いのことを知り始める。
なぜ宍戸が鳳に執着するのか。なぜ鳳が宍戸を拒むのか。悪魔とは、人間とは。
理解は少しずつ二人を歩み寄らせていった。
しかし鳳は、そして宍戸自身も、この時は深刻に受け止めていなかったのである。
人間の精気を得られないサキュバスは、生きてはいけなくなるということを。
今夜も宍戸は鳳の部屋にいた。
寝込みを襲っては力づくで性交を迫っていたサキュバスは、真夜中に突然現れることも、おかしな贈り物を持参することも、魔力を使って鳳の体を支配しようとすることもなくなった。
鳳が帰宅して寝支度を整えたころに現れては、翼を閉じてベッドの上に腰を下ろす。
そして鳳の話を興味深そうに聞き、ときたま自分のことを話した。
もっぱら人間界と魔界の生活の違いについて話すことが多く、そのどれもがお互いにとって新鮮なものだった。
「へー。じゃあ長太郎はその、だいがく、ってところに昼間は行ってんのか」
「はい。勉強したり、友達に会ったり」
「友達ねぇ。俺にもいるぜ。幼馴染とか、人間に詳しい変なヤツとか」
「俺の友達は人間じゃないものに詳しいので、なんだかその方と似てますね」
鳳は宍戸に笑顔を見せるようになった。
その笑顔に、宍戸も笑みを返す。
欲望を露わにしたような妖しさはそこにはなく、親しい仲間と笑い合うときに滲み出る自然な笑顔だった。
「宍戸さんはここにいないとき何をしてるんですか?」
「そうだな、ダチと飲みに行ったり、家で寝てたり」
「お仕事は?」
「んなもんねぇよ。働いて対価をもらう悪魔もいるけど、サキュバスは基本的に人間界が狩り場だからな。魔界で金稼ぎなんてしねぇの」
「そうなんだ」
「おまえが知らないだけで、俺みたいなやつらがたっくさん人間界で好き勝手やってるんだぜ。エロい夢見たとか、眠ったはずなのに疲れたとか言う人間がいるだろ。あれは大体サキュバスかインキュバスの仕業だ。イイコトして精気を食ってるんだよ。おまえみたいに正気のまま歯向かう人間なんて聞いたことねぇ」
「だって、いやだったんですもん」
拗ねた子供のようにツンとそっぽを向いた鳳を、宍戸は朗らかに笑った。
ここ数日会話を重ね、宍戸は人間が持つモラルというものを理解し始めた。
快楽のためだけに他人の肉体を弄ぶことは悪魔である宍戸にはどうってことない行為だが、人間にとっては決してもろ手をあげて褒められる行為ではないらしい。
鳳が宍戸を拒んだのはサキュバスにとっては都合の悪いことだったが、人間としてはむしろ理性的で紳士的な態度であったというわけだ。
滝のいう通り、鳳は『しっかりした子』だった。
サキュバスの誘惑に抗い理念を貫こうとした鳳と、他のサキュバスから聞く人間たちとは何かが違うと、宍戸は一目置いた。
「ほんと、惜しいぜ」
「何がです?」
「おまえを食えねぇことがだよ」
長い尻尾がゆらゆら揺れる。
鳳はその動きを目で追いながら、実家で飼っている猫を思い出していた。
「なんで好きな人とじゃなきゃセックス出来ねぇんだよ」
「だって、そういうことは好きになった人とするものですよ」
「おまえが俺としたくないってことはわかった。人間にとってのセックスと、俺たちサキュバスにとってのセックスは目的がまったく違うってことも、おまえの話を聞いてなんとなくわかってきた。でもよ、だったらなんで他の人間は簡単に俺たちに食われてるんだ?」
「それは……」
「同じ人間でも、みんながみんなおまえみたいな考えってわけじゃねぇってことなんだな?」
「そう、かもしれません」
鳳自身、どうして自分がここまでこだわっているのかよくわかってはいなかった。
性交は心を寄せた人としかしてはいけないはずだ。
でも何故かと問われると、うまく説明できない自分がいる。
心が伴わない性交など虚しいだけだろうと思うのだけれど、性的な経験がないものだから本当にそうなのか知る由もなかった。
「魔界にいる変なヤツがさ、人間は繊細な生き物だって言ってた。長太郎もそうなのか?」
「繊細? うーん、どうなんでしょうか」
「わかんねぇの?」
「はい……自分のことなのによくわからないなんておかしいですよね」
「激ダサだな」
「はは、なんですかそれ。そんな言葉初めて聞きました」
「すげーかっこわりぃってことだよ。でも、いいんじゃねぇか。一人くらい、そんな人間がいても」
「それを言ったら宍戸さんだって」
「ん?」
「一人の人間の精気を食べるためだけに毎晩通うサキュバスなんているんですか?」
「あー、いねぇな」
「ほら、俺と同じ。激ダサですよ」
じっと見つめ合ったのも束の間、先に噴き出したのは宍戸だった。
脇腹を小突かれた鳳もつられて笑いだす。
種族の違う生き物の笑い声が狭い部屋を満たした。
捕食者と被食者であるはずの二人の間に、友情に似た絆が生まれ始めていた。
また別の夜。
部屋にあるテレビに興味を持った宍戸は、鳳につけてもらい深夜ドラマを見ていた。
近頃人気を博している恋愛ものだ。
二人並んでラグに胡坐をかき、画面の中の登場人物たちがくっついたり離れたりする様子を眺めていた。
「なぁ」
宍戸が画面を見つめたまま口を開く。
「結局、恋愛ってなんなんだ?」
「恋愛ですか」
「人間が人間を好きになることを恋愛っていうんだろ?」
「好きにもいろんな種類があるんですよ。同じ人間に向ける行為でも、家族を好きっていうのは恋愛とは違いますし」
「まったく、ややこしいぜ」
「うーん、恋愛っていうのは、簡単に言うと自分とは生まれも育ちも違う他人を好きになって、その人にも好きになってもらうってことかな」
「その『好き』ってのがイマイチわかんねぇんだよ。具体的にどういう気持ちなんだ?」
「そうだなぁ」
恋愛話は苦手なんでうまく説明できないんですけど、と鳳は前置きしてから話を続けた。
「優しくしたいとか、笑った顔が見たいとか、その人のことを考えるとドキドキしてあったかい気持ちになるとか」
「ドキドキ、ねぇ」
「言葉で説明するのは難しいですね」
隣で話す鳳の声が優し気に聞こえて、宍戸は横目で鳳の横顔を盗み見た。
穏やかな目元と薄く開かれた唇で、はにかむように微笑んでいる。
見たことのない鳳の一面に触れた気がして、宍戸は唇を引き結んでテレビに向き直った。
鳳も誰かのことを想ってこんな表情をすることがあるのだろうか。
妙な焦りが宍戸の胸をザワつかせた。
宍戸はどうして自分がそんなことを考えたのか不思議に思ったが、なんとなく、秘密にしておかなければならないような気がした。
「悪魔には恋愛はないんですか?」
「知らね。少なくとも俺の周りでは人間みたいにまだるっこしいことしてるヤツはいねぇよ。腹が減ったら食って、眠くなりゃ寝る。遊びたいときに遊んで、好き勝手やってる」
「そうなんですか」
「おまえはさ、その、好きなヤツとかいんの?」
「え? いませんよそんなの」
素っ気なく返された言葉は、なぜか宍戸を安堵させた。
「そっか……でも今までにはいたこともあるんだろ?」
「まぁ、一度や二度くらい人を好きになったことはありますけど」
「そいつとはヤリてぇって思わなかったのか?」
「ヤッ……あのですね、好きになったからってすぐそういうことに結びつけるわけじゃないんですよ。まず両想いっていってお互いを好きにならないと恋人関係にはならないですし、そんな、付き合うとか、そういうのはあまり経験がないっていうか……」
語尾につれ覇気のない喋り方をする鳳は、自身の恋愛経験の少なさが気恥ずかしいようだ。
そんな人間の複雑な心理など、悪魔は微塵も読み取ってはくれなかった。
「でも俺の友達はお前くらいの若さの男が一番うまい精気を食わせてくれるって言ってたぞ。うまい上にいくらでも出るって。そんだけ元気があるなら恋愛なんかすっ飛ばしてセックスしてぇもんじゃねぇのか?」
「確かにそういう人もいるかもしれませんけど、俺は違いますから!」
サキュバスほどではないにしろ、確かに人間にも節操なく体を繋げたがる者たちはいる。
彼らを否定も肯定もしないが、鳳には縁のない話であった。
「とか言ってよ、俺が魔力でおまえの体いじくったとき、本当は平気じゃないくせに」
「えっ……?」
「知ってんだぜ。おまえ、俺が帰ったあとに自分でしてただろ」
「え、え、あの、なんで」
図星だった。
宍戸が言うように、鳳は宍戸に魔力を使って襲われた夜は決まって自慰をした。そうしなければ眠ることができないほど体が疼いてたまらなくなるからだ。
「なんで知ってるかって? サキュバスの誘惑をなめんなよ。俺たちが人間に流し込むのはな、解毒薬のない媚薬、それもとびきり強力なやつだ。そう簡単に鎮まるわけねぇんだよ。俺を追い払えたって、体が満足するまで術は効き続ける」
「~~~っ!」
「ははっ、そう恥ずかしがんなって。」
悪魔とはやはり人間を唆せるだけの力をもつ種族なのだと、鳳は身をもって実感した。
よくぞ抵抗できたものだと思う。
他の人間は抵抗せずにサキュバスを受け入れているという宍戸の話はもっともだと感じた。
あんなに自分を律することができなるくらい発情してしまったら、目の前の甘い誘惑に容易く靡いてしまったとしても誰を責めることが出来ようか。
「悪魔の力ってすごいんですねぇ」
「そういう風に生まれてきたからな」
「習って覚えるものではないんですね」
「一通りの狩りの仕方は先に独り立ちしたやつに聞いたりするけど、人間の食い方は本能が知ってる。術のかけ方を自分で工夫するやつもいるけどな」
「でも他のサキュバスとは、こういうことしたりしないんですか?」
「サキュバス同士でか? 同族じゃ餌にならねぇからしねぇよ。意味がない」
あくまでサキュバスが性交するのは人間とだけ。精気を搾取し栄養とするためだ。
人間同士が生殖やコミュニケーションのために性交するのとは目的がまったく違う。
ここにサキュバスと人間が理解し合えない最大の溝があった。
「俺たちって、まったく違う生き物なんですねぇ」
「そうだなぁ」
不思議な関係の二人だ。
友人とは言えないかもしれない。しかし、敵対関係とももはや言えない。
いつの間にかお互いを理解し合おうとしている二人は、もしかしたら自然の摂理に反しているのかもしれなかった。
サキュバスは人間を餌にすることが本来あるべき姿だし、人間はみだりに悪魔と交流を持つべきでなないはずだ。
だが二人とも、お互いのことを話すこの時間が好きだった。
別種族への興味だけではなく、宍戸は鳳の、鳳は宍戸の、考え方やふるまいを好ましく思っていた。
特に鳳は、はじめこそ宍戸の横暴さに辟易し疎ましい存在だと邪険にしていたが、彼のひととなりを知れば知るほど心打たれるようになっていった。
よくよく観察すれば、この宍戸という悪魔は人間という生き物の複雑さや機微を知らないだけで、本当は無垢な生き物なのではないか。
その証拠に、鳳の話や部屋にあるものを耳や目でつぶさに観察しては知識として吸収しようとする姿勢が見て取れる。
鳳に会いに来るのだって、当初の目的を完遂するための努力だと思えばなんとも根気強いことではないか。
悪魔にも勤勉さや一途さがあるのかはわからないが、少なくとも宍戸にはそれらが備わっているように思えた。
そんな宍戸に憧れや尊敬の念すら抱き始めた鳳である。
「俺、むかしからお化けが苦手なんですけど、宍戸さんのことは怖くありません」
「お化けと悪魔は違う生き物だぞ。悪魔と人間だって違う生き物だけど、住む世界が違うだけで同じように生きているんだ。怖がる必要はない。ちょっと、お互いの利害が一致しないことがあるだけだ」
宍戸の横顔を見つめる。
涼し気な目元がテレビに釘付けになっているのが、少しだけ歯痒かった。
こちらを向いて、その瞳を見せてくれないだろうか。
魔力を流し込まれるのは困るが、金色に輝くときの宍戸の瞳はとても美しい。
世界中の欲望を凝縮したようで、触ったら火傷してしまいそうに燃えるあの瞳。
危険を冒してでももう一度見てみたいと思ってしまうのは、心の内に仕舞っておこう。
「さてと、帰るか」
宍戸の声に画面を見ると、ちょうどドラマが終わったところだった。
立ち上がった宍戸にならい鳳も腰を上げる。
「じゃあな。また」
「はい。また明日」
窓ガラスを通り抜け、闇夜に溶けるように飛び去る悪魔。
宍戸を見送るのが寂しいと感じるようになったのはいつからだったか。
鳳はテレビを消した静かな部屋で一人、頭の中で宍戸との会話を反芻していた。
魔界では、幼馴染たちが宍戸に人間界での話をねだっていた。
彼らも滝同様に人間への、特に宍戸が食べたくても食べられずにいる鳳への関心が高い。
「今日はどうだった? あいつ元気だった?」
「あぁ、いつもと変わらず」
「それでそれで? 面白い話聞かせてほC」
宍戸は、テレビというものを初めて見たが薄い板の中で人間が動いていて面白かった、と鳳の家では見せなかった興奮を露わにして二人に話して聞かせた。
「まじまじすっげー! 俺も今度入った家で見せてもらっちゃお」
「ジローはばかだな。普通の人間は俺たちに食われて腰砕けになっちまうだろ。テレビなんて見る余裕ねぇよ」
「その通り。長太郎は特別なんだよ」
「また出た! 長太郎自慢」
「すっかり舎弟みたいになってるC」
「そんなんじゃねぇよ」
「でも随分お気に入りじゃん」
「仲良しって感じ~」
二人に鳳との仲を揶揄されて、まんざらでもない宍戸である。
「ねぇねぇ、今なら鳳も宍戸に食べられてくれるかもよ?」
「ここまで打ち解けたんなら、もういけるんじゃねぇの?」
「うーん」
「なんだよ、ノリ気じゃないのかよ?」
正直なところ、今のままの関係がもう少し続けばいいなと思っている宍戸には、幼馴染たちの提案があまり魅力的ではなかった。
鳳との会話は知らないことをたくさん知れて刺激的だ。
魔力で腰砕けにしてしまっては、会話どころではなくなってしまう。
「悪魔のおまえが人間にほだされてどうすんだよ。あいつらは餌なんだぞ」
「そうそう! きっとおいCよ~~」
「おまえの腕の見せ所じゃねぇか」
「本気だしちゃいなよ!」
「そうだ! 宍戸ならやれるって」
宍戸が渋る理由が自信を失っているからだと勘違いした幼馴染たちは、口々に励ましのエールを送った。
気のいい悪魔たちだ。
彼らの応援を無碍には出来ない。
「わかった。次は仕留める」
「その意気だ!」
「宍戸~がんばって~!」
二人の応援とは裏腹な気持ちを抱いたまま、宍戸は夜を待ち鳳の部屋へと向かった。
いつもと様子が違う夜だった。
床に就く時間になっても宍戸が来ない。
今日は人間界に咲く色鮮やかな花を見せてあげようと普段立ち寄ったことのない花屋で小さなブーケを買ってきたというのに、これでは枯れる前に見せてあげられない。
「こんな日もあるか」
きっと明日は、またどこからともなく現れるに違いない。
また花を買ってきて見せてあげよう。魔界には咲いてないだろうから、喜んでくれたら嬉しい。
鳳は昨日の宍戸の後ろ姿を思い出しながらベッドにもぐりこんだ。
まぶたを閉じると、まどろみ、体がシーツに沈んでいく。
意識を手放し夢の中へ旅立とうとした、その時だった。
「よぉ」
聞きなれた宍戸の声に、来訪を待ちわびていた鳳は不用意にまぶたを開けてしまった。
その目が捉えたのは、金色に輝く二つの瞳だった。
「なん、で」
「ちょっと、本気だすぜ」
瞳を逸らすことができない。
鳳の体の中に覚えのある熱が流し込まれていく。
宍戸の魔力だ。
鳳は抵抗しようとした。
しかし体は思うように動いてはくれなかった。
それどころか、今まで感じたことのない熱に頭が朦朧としてくる。
血管の中を濁流が押し寄せてくるようだ。
急速に昂っていく性感が鳳の下腹部を疼かせた。
荒く呼吸し肌を火照らせていく鳳を、宍戸はただ見つめていた。
「苦しいか? すぐによくしてやるからな」
鳳の布団をはいで、パジャマをはだけさせていく。
下着ごとズボンをずらした宍戸は、勢いよく飛び出してきた鳳の陰茎に舌なめずりした。
「すっげぇ……バッキバキ。おまえこんなモン持ってたのかよ」
血管が浮き出るほど硬く勃起したペニスに舌を這わせた宍戸は、尿道口からとめどなく溢れる先走りごと亀頭にむしゃぶりついた。
「ッハァ、うめぇ……人間ってこんなにうまいのか。もっと、もっとくれよ、長太郎」
一滴も零すまいと亀頭の先を吸い上げてから口を離した宍戸は、下半身を露わにし鳳に跨った。
先走りを少し味見しただけで魔力が漲ってきたのだ。もしも腹の中で直接鳳の迸りを受け止め、精気を吸収することができたのなら。
宍戸は鳳を食らいたい欲求に突き動かされ、腰を落とし、しとどに濡れた蜜壺を亀頭に口づけさせようとした。
「……なんだよ。そう睨まないでくれよ」
体を動かせない鳳は、それでも抵抗しようと宍戸を睨みつけていた。
歯の隙間から獣のような荒い息を吐き出しながら、必死にもがいている。
「無駄だぜ。人間のおまえが俺に勝てるわけがない」
宍戸の言葉は鳳を激怒させ、絶望させた。
それは捕食されることへの絶望ではなかった。
種族の垣根を超えて理解し合える仲間だと思っていたのに、宍戸には想いが届いていなかったと突きつけられたことへの絶望だ。
触れられるだけで快感が弾けそうになる。
しかし鳳はこのまま肉体的な快楽を宍戸に許すつもりはなかった。
渾身の力を振り絞り、腕を突き上げる。
動けないはずの鳳が見せた抵抗に驚愕する宍戸を突き飛ばし、馬乗りになって彼の腕を拘束した。
鳳は、怒りと、流し込まれた魔力でどうにかなってしまいそうだった。
なし崩しに性交などしたくないのに、悪魔の魅力に取りつかれて、体は快楽を求め始めていた。
気を抜いたら宍戸に噛みついて、力任せに犯してしまうかもしれない。
そんなことは絶対にしたくなかった。
だが宍戸は、必死な形相でよだれを垂らしながら耐える鳳を見上げると、さも当然かのように足を広げ蜜壺を露わにした。
驚いて離れようとする鳳の腰に足を巻き付けて、ありったけの色香で誘う。
唇で弧を描き妖艶に笑んでみせる宍戸を見下ろし、鳳は悟った。
生きる世界が、価値観が、生態が違うのだ。
いくら言葉で理解を深めようとも、持って生まれたサキュバスの本質を変えることは出来ない。
それは人間である自分も同じことで、決して埋めることの出来ない宍戸との溝の深さに涙が溢れた。
鳳の悲しみは、この悪魔と心を通わせられるかもしれないと期待した自分の、浅はかさへの後悔と諦念だった。
「ちょ、長太郎? どうした、泣くなよ」
生温かい雫が宍戸に降り注ぐ。
覆いかぶさったまま突然ぼろぼろと泣き始めた鳳を見上げて、宍戸は狼狽した。
「そんなに俺とするのが嫌なのか?」
声もなく鳳は涙を流し続ける。
「俺のこと嫌いか?」
かぶりを振った鳳は悲しげに宍戸を見つめた。
「嫌いじゃないなら、どうしてそんなに悲しそうな顔をするんだ。俺のこと嫌いじゃないんだろ? だったらもうセックスしてもいいんじゃないのか?」
宍戸は鳳を開放するが、見えない刃物で薄く皮膚を裂くように、宍戸の何気ない言葉が鳳を傷つけ、絶望の底へと突き落としていった。
「ごめんなさい、乱暴にしてしまって」
ベッドの上でうなだれたまま、鳳は唇をわななかせた。
「本当に、ごめんなさい」
鳳の謝罪は今まで宍戸にしたどんな抵抗よりも強烈な拒絶だった。
泣き止む気配のない鳳を心配し、宍戸が手を伸ばす。
その手を鳳は振り払った。
「長太郎」
「……」
「泣くなって。なぁ、どうしたら泣き止んでくれる?」
鳳は宍戸と目も合わせようとしない。
まだサキュバスの術は効いているはずなのに、体の反応は冷めきって、ただただ鳳を悲しくさせているだけのように見えた。
宍戸は、快感を追い求める欲求よりもはるかに鳳の悲しみが深いことを知り、どうしたらいいのかわからなくなった。
宥めようともう一度伸ばした手は鳳にたどり着くことができたが、背をさすっても頭を撫でても、鳳は宍戸に一瞥もくれることなく涙を流し続けている。
どうすれば人間の涙を止めることができるのか、宍戸は知らない。
それでもどうにかしてやりたくて、宍戸は濡れそぼった鳳の頬に口づけた。
涙の味は塩辛く、いつか舐めとった甘い涙とはまったく異なるものだった。
「長太郎が泣き止まないのは俺のせい……なんだよな?」
鳳は答えない。
なぜこれほどまでに悲しませてしまったのか、宍戸には見当がつかなかった。
しかし宍戸のせいだということだけは明白で、そしてどうしてか胸の奥がチクリと痛んだ気がした。
痛みの理由さえ、この悪魔にはわからない。
ただ一つわかったのは、そばにいれば鳳を悲しませてしまうということだけだった。
「そうか、わかった。もうここには来ない」
顔を上げた鳳が声の主を探した時にはもう遅い。
その声だけを置いて、宍戸は部屋から消えていた。
「宍戸、さん?」
呼び声が虚しく響くだけ。
鳳は直感した。
もう二度と宍戸には会えないのだと。
鳳は魔界に行くすべを持たない。
来るのを待つばかりだった日々はもう、戻ってこないのだ。
「宍戸さん」
静まり返る部屋に、寄る辺ない涙声が溶けた。
「鳳」
「……」
「お前が呼び出したんだろ。黙りこくってないで要件を話せ」
宍戸が現れなくなってから数日が過ぎた。
もう睡眠時間が削れられることも、悪魔との考え方の違いに頭を悩ませる必要もない。
しかし鳳は日に日に塞ぎこんでいく自分を自覚していた。
目の下のクマはすっかり消えてなくなったが、心に残るモヤモヤとしたわだかまりが消えてくれそうにない。
持て余した鳳は、誰かに胸の内を聞いてほしかった。
そうすれば以前の自分に戻れると思ったのだ。
日吉を呼び出したのはそんな週末の昼下がり。場所はオープンテラスのあるカフェだった。
「もうサキュバスに会えなくなっちゃった」
「なんだと?」
「だから面白い話は聞かせてあげられなくなっちゃうや。ごめんね」
「……なにかあったのか?」
「え?」
「おまえにしては珍しく落ち込んでいるように見える」
「そう、見えるかな」
「本当はその話をしたくて俺を呼んだんだろ。聞いてやるから話せばいい」
「うん……日吉、ありがとう」
鳳は最後に宍戸に会った夜のことをかいつまんで話した。
それまで友好な関係を築いていたこと、突然襲い掛かられて驚いたこと、怒りと悲しみ、そして絶望。
あの夜から今までずっと気持ちを整理しきれずにいることを、ぽつりぽつりと言葉を選びながら話した。
「もう会えないのかな」
「鳳のところには来ないって言って消えたんだろ? だったら望みは薄いな」
「だよね……」
「おまえはその悪魔に会いたいのか」
鳳の話に耳を傾けながら、日吉は注文したアイスティーに口を付けた。
アールグレイの華やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「会いたいのかな。わからない。でも、このまま会えなくなるのはいやだなぁ」
「なぜだ」
「え?」
「会ってどうする。また襲われるかもしれない。そしておまえは同じように傷つくかもしれない」
「そうだけど……」
「それでも会いたいと思うのは、なにか理由があるんじゃないのか」
あの夜宍戸が去ったあと、鳳は快楽に流されかけた自分を嫌悪していた。
冷静になって考えれば、サキュバスである宍戸にとって性交は食事と同義だ。
食事をするために鳳を襲い、失敗した。
今までと同じ、ただそれだけのことなのに、鳳は自分に堪え性がなかったせいで宍戸を組み伏せ、勝手に絶望し涙し、宍戸を困らせてしまった。
ようやくわかり合えて来た宍戸のことを、所詮は悪魔だと、突き放したのは自分の方だったのではないか。
「俺、ひどいことを思ってしまった。悪魔と人間はどう頑張っても心を繋げることは出来ないんだって」
「そいつとは仲良くやれていたのか?」
「少なくとも、俺はそう思ってるよ」
深夜番組を一緒に見たり、お互いの生活のことを話したり、ピアノ演奏会の動画を見せたり、大学のテキストをめくりながら授業のことを話たり。
宍戸と過ごした夜はそう多くはないのに、鳳の記憶には目を輝かせた彼の笑顔ばかりが焼き付いていた。
「おまえは寂しいんだな」
「寂しい?」
「あぁ。そいつに会えなくなることが寂しいんだ」
「そうか……うん、そうかもしれない」
胸にくすぶり続けていたのは、後悔と喪失感だった。
ぽっかり穴が開いたような気がしたのは、鳳にとって宍戸の存在がそれだけ大切なものになっていたからだ。
それに気づいたとき、鳳は目が覚めた心地がした。
こんな感情には覚えがある。
どんなに強く想っても届かない、歯痒くて、ままならなくて、手放そうとしても手放せない、もどかしい気持ち。
「まるで、失恋したみたいだ。あぁ、そうか、俺は……」
ぽとり、取りこぼすように呟かれた鳳の言葉を、日吉は聞こえないふりをした。
悪魔との逢瀬が今後叶う保証はない。
ならば、どんな慰めの言葉も意味を成さないだろう。
不毛な恋が鳳を苦しめても、日吉には彼を救ってやることも助太刀してやることも出来ないのだ。
だから今だけは、恋心を自覚した友人が静かに流す涙の盾になってやろう。
他のテーブルから向けられる好奇の視線に鋭く睨みを返し、日吉は氷が融けて薄くなったアイスティーに再び口を付けた。
魔界に戻った宍戸は鳳の涙を忘れられず、漫然とした日々を過ごしていた。
悲しい顔で泣かせてしまった原因がわからず、いつもの調子がでない。
幼馴染たちは、新たに狩りに出ることもしないでぼーっとしてばかりいる宍戸を心配し度々遊びに誘ったが、楽しんでいるように見えても心ここにあらず、宍戸の表情は晴れなかった。
困り果てた二人は宍戸を滝が働いているバーに連れて行くことにした。
宍戸の元気がなくなったのはあの人間に会いに行ってからだ。人間と何かあったに違いない。
そう考え、人間に詳しい滝の力を借りようと思ったのだ。
「三人とも、いらっしゃい」
席についてしばらくしたころ、滝がなみなみと酒の注がれたジョッキを三つ持って現れた。
三人が注文したファーストドリンクだ。
「滝~! 助けてくれよぉ」
「宍戸が変なんだ!」
器用にジョッキをテーブルに置くやいなや芥川と向日に縋りつかれ、滝は苦笑する。
「今度はどうしたの?」
「……どうもしねぇよ」
ぶっきらぼうに答えた宍戸は、ジョッキを煽り一気に半分を飲み干した。
「その様子だと何かあったんだね」
「何日か前に人間界から帰ってきてからずっとこんな調子なんだ」
「ぼーっとしてさ、何しても全然楽しくなさそうだC」
「……」
「黙ってないで話してあげなよ。俺はともかく、二人がこんなに心配しているんだ」
向日と芥川に心配されていることは、今更滝に言われなくてもわかっている。
言えずにいたのは、宍戸自身どうしてこんなに気落ちしているのか原因を説明することが出来なかったからだ。
「うまく言えねぇんだけどよ」
宍戸はあの夜の出来事について、ところどころ言葉に詰まりながら三人に話した。
もともと言葉で表現することは得意ではない。
それに、一方的な見方の説明では足りない気がして、鳳がどのように振る舞っていたのかを出来る限り事細かに伝えるべきだと思った。
宍戸は三人の内の誰かしらが、鳳が泣いた理由について教えてくれることを期待したのだ。
「なるほどね」
あらかたの説明を終えジョッキに口を付けた宍戸を見やることなく、滝は呟いた。
他の二人は腕を組んだり天井を見上げたり、宍戸の説明に合点がいっていないようだ。
「宍戸はどうしてその人間の子が泣いてしまったのか知りたいんだね?」
「ああ」
「そうか。宍戸、それはね、裏切りって言うんだよ」
「裏切り? 別に何も約束しちゃいねぇぞ」
滝は空いていた席から椅子を引っ張ってきて、宍戸の向かい側に腰かけた。
これからこのサキュバスに人間の奥深さを説いてやらねばならない。
きっと理解するのは簡単ではないだろう。
でも、友人の心がそれを知りたがっているのだから、滝は自分が知る限りの情報を与えてあげたいと思った。
「その子は宍戸のことを信頼していたんだよ。楽しく話すことが出来ていたんだろう? 人間は会話で相手を推し量る。その子は宍戸のことを信頼に値する相手だと思っていたんじゃないかな」
「そうなのか?」
「さあね。本当のところはその子に聞いてみないとわからない。でも、少なくとも自分を襲う悪魔が通ってくるのを嫌がらないで迎え入れてくれるようになったということは、それだけ信頼されてたってことだ。宍戸、おまえはね、その信頼を裏切ったんだよ」
「信頼されてるなんて言われたことねぇぞ。言われたことないものを、どうやって裏切るっつーんだよ」
「人間はね、言葉にしなくても話しているんだよ。まなざしで、仕草で、たくさん話しているんだ」
「……わかるかよ、そんなの」
「そうだね。難しい生き物だね」
宍戸は苦虫を噛みつぶしたような表情で悪態ついた。
ポカンと口を開けながら二人の会話を聞いていた幼馴染たちに、滝は曖昧な笑みを返す。
人間の心に触れていなければ、滝の言葉は風のように耳のそばをすり抜けていくだけだったことだろう。
しかし今の宍戸には、ズシリと腹の中に重しを埋め込まれたように感じられた。
「だから長太郎は泣いたのか?」
「悲しかったんだよ。悪魔とは言えおまえのことを信じていたのに、突然現れたと思ったら動けないくらい強い魔力を流し込まれてさ。きっと怖かったと思うよ」
「怖がらせるつもりなんてなかった」
「でもショックだったんだ。だから感情が溢れて涙になった。宍戸はちゃんと謝った?」
「謝る?」
「人間は相手に悪いことをしたら謝るものなんだ」
「俺は謝ってない。でも、長太郎は俺に『ごめんなさい』って言った」
「あぁ……そうか、その子は本当にしっかりした子だったんだね。魔力を使って誘惑したのは宍戸だったのに、襲い掛かってしまったことを悔いたんだ」
「どうしてだ。俺はそのまま食えればそれでよかったのに」
「それはね、その子が宍戸に誠実でいたかったからだよ」
「せい、じつ……?」
二人の会話を黙って聞いていた芥川は、う~ん、と腕を組みながら唸った。
「でもでも、人間は俺たちの餌なんだから宍戸が食いに行くのは仕方ないことだC」
芥川の言葉にハッとした向日もそれに続く。
「そうだ。食わなきゃこっちが空腹になるんだ。宍戸がしたことはなんにも悪いことなんかじゃねぇ」
「俺たちサキュバスは人間を殺したりしないよ。ちょっと精気を分けてもらって、変わりにいい夢を見させてあげるんだ。それだけのことなのに、なんで宍戸がこんなに落ち込まなきゃいけないの?」
幼馴染たちは宍戸をかばうようにして滝に詰め寄った。
「サキュバスが人間を餌にすることは、自然のことではあるんだけれど……」
「長太郎は『好きな人』としかしたくないんだ」
ジョッキからテーブルに点々と垂れ落ちた水滴を見つめながら、宍戸は小さく呟いた。
「どうしてだ。『好き』ってのはそんなに大事なことなのか? 気持ちいいことは良いことのはずだろ? 『好き』ってのも多分良いことなんだろ? どっちも良いことなのに、どうして長太郎はどっちも揃わないとだめなんだ? 気持ちいいことだけを受け入れていれば、悲しむことなんかなにもないじゃねぇか。俺に食われて、いい夢見て、それで終わりじゃだめなのか?」
「それじゃだめだってことは、その子とたくさん話した宍戸が一番よく知ってるんじゃないの?」
ハッとして顔をあげれば、向日は心配そうに、芥川は不服そうに、そして滝は諭すように宍戸を見つめていた。
「なぁ、どうしても長太郎を食わないといけないのか?」
向日が宍戸の腕を掴む。
まるでどこか知らないところに行ってしまうのを引き留めるかのように、その指には縋るように力が込められていた。
「いくら長太郎がうまそうだからって、このまま人間を食わずにいたらどうなっちまうか、おまえだってわかってるはずだろ」
「宍戸の誕生日を過ぎてからもう随分経ってるC、そろそろ魔界の食事じゃ生きていけなくなっちゃう」
「わかってる……わかってるんだけど……」
「迷ってる場合じゃないんだってば! そいつのせいで宍戸が死んじゃったらどうすんだよ!」
テーブルを叩いて立ち上がった芥川は、宍戸に向かって吠えた。
憤った拍子に開いてしまった芥川の翼が滝の頬をかすめる。
周りの客たちが騒動を面白がって寄ってくるのを滝が散らし、宍戸達を気にかけながらもそのまま仕事に戻っていった。
「今夜は人間界に行くよね?」
「誰でもいいから食って来い。いいな?」
向日と芥川は宍戸に念を押した。
これ以上人間の精気を得ずして魔力を維持することは難しい。
魔力を持たない悪魔が魔界で生きていけるはずもなく、すなわちそれは死を意味する。
そのことを、宍戸も二人も、十分すぎるほど理解していた。
真夜中。
宍戸は人間界の喧騒に紛れた。街はエネルギーの有り余っている人間ばかり。精気は誰からでもたんまりいただけそうだ。
それなのに誰一人として食指が動かない。たむろする若者たちからも、スーツ姿のサラリーマンからも、客引きするホストからも、誰からも食欲をそそる匂いがしてこないのだ。
蠢くように充満する人間の精気にあてられて、腹はどんどん減ってくる。サキュバスの本能は食らえと宍戸を急かしてきた。それなのに手を伸ばすことが出来ない。
「チッ!」
苛立ちは宍戸の思考を鈍らせていった。
遠くで友人たちの忠告が聞こえた気がした。
ここ何日もうまく眠れていない。
寝返りをうった鳳は、毛布をはいで天井を見上げた。
薄手のカーテンからは淡い月の光がぼんやりと部屋に漏れ入ってきて、とても静かな夜だ。
授業やアルバイトで毎日忙しなく、体は疲労を訴えている。
誰にも邪魔されず安眠できる日々を取り戻したがっていたはずなのに、自分の本当の気持ちに気付いてからというもの、夜を迎えるたびに焦燥に似た居心地の悪さが鳳を襲っていた。
もう一度、宍戸に会いたい。
会って話をしたい。
しかし鳳にはなす術がなく、ただ宍戸が再び訪れてくれることを願うばかりだった。
眠っている間に来るかもしれないと思うとなかなか寝付けず、ようやく眠れても何も起こらないまま朝を迎えると、落胆とやるせなさでいっぱいになる。
今夜もまた、何事もなくいたずらに時が過ぎていった。
日付の変わる前にベッドに入ったのに、すでに真夜中というよりは明け方に近い。
あと半刻もすれば月は沈み、空はあさぼらけに色づき始めるだろう。
諦め、ため息をつきながら、鳳は気休めにまぶたを閉じた。
キン……!
突然の耳鳴りに顔をしかめる。
いよいよ積み重なる睡眠不足のせいで体調に異常をきたし始めたか、と鳳は無理にでも眠るために思考を止めようとした。
キィィィ……ン!
耳鳴りはどんどん酷くなっていく。
だが頭痛がするわけでも具合が悪くなるわけでもない。
一旦水でも飲もうとベッドを出ようとした、その時だった。
突然、空間が裂けた。
天井とベッドの間、ちょうど足元のあたりに稲妻のようなひびが現れ、広がるとともにまるでブラックホールのような漆黒の穴が開いていく。
そして人が一人行き来できるような大きさになった穴の中から、宍戸が現れた。
「し、宍戸さん!」
鳳は再び宍戸に会えた嬉しさに、勢いよく起き上がろうとした。
だが虚ろに開かれた宍戸の瞳を見た瞬間、体の自由が効かなくなり、仰向けのままベッドに倒れこんでしまった。
宍戸の瞳は煌々と黄金色に光り、大きく開かれた翼が鳳の視界から月の光を遮る。
漆黒の穴は消え、代わりに麝香を煮詰めたような禍々しい香りが部屋を満たした。
香りは即座に鳳の体内を巡った。
内側から熱せられているかのように肌は火照り、下腹には何の刺激も与えられていないのに血液が集まって陰茎を硬くする。
呼吸が浅くなったかと思えば、布が擦れるだけで体が跳ねそうになるほど性感が昂り始めた。
まるで最後に宍戸に襲われたときと同じような反応、いや、それ以上かもしれない。
下着の中で張り詰めたペニスが震えて、亀頭が布地に擦れるたびに、今にも射精してしまいそうなほどの快感で脳に霞がかかっていく。
せめてもの抵抗に顔を逸らしたが、見えない力で無理やり上を向かされた鳳は自らの意思とは反して大きくまぶたを開かされ、太ももに跨ってきた宍戸の瞳にまっすぐとらえられた。
鳳の目に映ったのは、今まで襲い掛かってきたときに何度も見せた妖艶な悪魔の笑みではなかった。
その表情は険しく、長い尻尾は切羽詰まったように忙しなく揺れてシーツに叩きつけられる。
ときたま眉根を寄せては耐えきれないといった風に短く息を吐き出す宍戸は、どう見ても鳳の知る普段の様子とはかけ離れていた。
宍戸の手が鳳に伸びる。
下着ごとパジャマのズボンをずり下げると、血管が浮き出るほど硬く膨張したペニスが弾かれるように外気に曝された。
尿道口からは先走りが溢れ出し亀頭を濡らす。
その様子を見下ろして、宍戸は熱い息を漏らした。
むしり取った鳳のズボンと自らの衣服を全てベッドの下に放り投げて、宍戸は鳳の腰に跨った。
勃ち上がった性器は鳳と同じように先走りに濡れている。
それよりも特筆すべきは、今にも鳳のペニスを飲み込まんとするアナルの熟れようだった。
サキュバスの肛門はまごうことなき極上の性器だ。
粘度の高い愛液は、餌である人間の陰茎を胎内深くまで迎え入れるためのもの。
きつく、時には柔く蠢く腸壁は、精液の分泌を促し一滴残らず搾り取るためのもの。
宍戸の蜜壺からしとどに溢れる愛液は、ぽたりぽたりと玉の糸を引いて鳳の亀頭を濡らした。
輝く瞳から流し込まれる魔力も、禍々しく人間の血に溶ける香りも、艶めかしい肌や髪も、すべては人間の発情を促す媚薬。
サキュバスは全身で人間を誘惑し絶頂に導き、そして精気を搾取する生き物だった。
鳳はサキュバスという悪魔の真の恐ろしさを目の当たりにしていた。
これが宍戸の本来の姿なのだ。
汗につやめく肌に触れてみたい。
色づく唇に口づけてみたい。
揺れる尻尾にきつく巻き取られたい。
美しい瞳で永遠に射貫かれていたい。
なにより、今すぐその胎内に飲み込まれ、骨の髄まで貪り尽くされてみたい。
今までしてきた抵抗などなんの意味もなかった。
なにせ、鳳を陥落させたのは己の恋心なのだ。
恋する相手に体を求められたら、それがただの栄養補給だったとしても、鳳にはもうひれ伏すことしかできなかった。
宍戸がゆっくり腰を落としていく。
やわらかい蜜壺が吸いつくように亀頭に触れ、その温かさに鳳の体は歓喜した。
そして、自然と涙が零れた。
このまま、宍戸に食われてしまおう。
精気などありったけ渡してしまおう。
たとえそれで満足した宍戸が二度とこの部屋を訪れなくなってしまったとしても構わない。
宍戸の、好いた相手のぬくもりを覚えていられるなら、鳳はそれだけで十分だった。
恋は綺麗で、清純で、人を強くし、優しいものだと思っていた。
なんと儚い幻想だったのだろう。
宍戸の心を手に入れられないのなら、一瞬だけでもその体を手に入れてみたい。
鳳は自分の心を巣食う独占欲を自覚し受け入れた。
叶うことのない恋に溢れる涙は止まらないが、それでも宍戸に飲み込まれるのを待つ鳳は幸福だった。
「……んで」
宍戸の腰がぴたりと止まった。
か細い声が震えている。
鳳が見上げると、宍戸は顔を歪ませていた。
「なんで、泣くんだよ」
「……え?」
声を出せたことに鳳自身が驚く。それどころか、動かせなかったはずの体が徐々に自由を取り戻しはじめた。
「ししど、さん?」
鳳の陰茎を飲み込むことなく腹の上にぺたりと座り込んだ宍戸を見上げれば、唇をわななかせた悪魔の瞳からはらりと涙が零れ落ちた。
涙の量はみるみるうちに増え、ぼろぼろと流れるまま頬を伝い鳳に降り注ぐ。
しゃくりあげた宍戸は小さい子どもがするみたいに声を上げて泣き出してしまった。
「宍戸さん?! どうしたんですか?」
「なんでっ、おまえ、泣くんだ」
「えっ、俺?」
「そんなに、俺とすんの、嫌なのかよ、っ」
「い、いや、そんなこと」
「なんで嫌がるんだよ、俺は、おまえじゃねぇと嫌なのに。っ、ひどい、もういやだ。はらへったぁ。ちょうたろうの、ばかやろう」
わーん、と腹の上で悪魔が身も蓋もなく泣き喚いている。
さっきまでの鬼気迫るサキュバスの姿はどこへやら、翼も尻尾も力なくへたり込んでしまっていた。
一体どうしたというのだろう。
わけがわからず涙の引っ込んだ鳳は、ゆっくり体を起こすと、膝の上に乗せた宍戸の手を取った。
泣き腫らした目元はうっすら紅くなってしまっている。
落ち着くまで手を握って待っていようとしたが大粒の涙は止まることを知らず、まだほのかに輝く金色の瞳が水面に漂っているようで、鳳はしばし見惚れた。
「もう、だめなんだ」
「なにがだめなんです?」
「人間の精気がないと、俺は、死んじまう」
「そんな」
よくよく見れば、最後に会った時よりも幾分か痩せたような気がする。
やせ型であるとは思っていたが、首元やあばらに浮き出る骨が影を落としていて、宍戸の言っていることが想像以上に深刻であると伺い知れた。
「おまえを食えないから、他の人間を食おうと思った」
「他の、人間?」
胸にどす黒い影が広がるのを感じ、鳳の心はざわついた。
自分以外の人間を食うということは、つまり性交をするということだ。
いくらサキュバスにとっての食事だからといって、見過ごせるほどの器を今の鳳は持ち合わせていなかった。
「食べたんですか、他の人間を」
「……食えなかった」
「食えなかった?」
「だめだったんだ。街にはいっぱい人間がいたのに、どいつもこいつもたんまり精気を持っていたのに、食えないんだ。うまいと、思えなくて」
「どうして」
「おまえしか、長太郎しか、うまそうに見えねぇんだ。長太郎がいい。おまえしか、食いたくない」
顔をくしゃりと歪ませた宍戸は、再び声を上げて泣き出してしまった。
宍戸が鳳のペニスを飲み込まなかったのは、鳳の流した涙が以前の涙と同じく拒絶を意味していると思ったからだ。
宍戸にとって鳳からの拒絶は、悪魔の矜持をも揺るがす魔除けとなってしまったのだ。
その原因と意味を宍戸はまだ理解していない。
そんなことよりも腹が減って仕方なかった。
飢えたサキュバスは涙を流しながら尻尾を揺らし始めた。
下唇を噛んでは喉を鳴らし、鳳の太ももは宍戸の蜜壺から滴る愛液で濡れそぼる。
目の前の人間を食らってしまいたいのにそれが出来ないのが恨めしいと、悪魔は泣いていた。
「俺のこと、そんなに食べたいんですか?」
「食いたいっ! すっげー食いたい! 腹が膨れるまで、長太郎だけ食っていたい! でも……おまえは『好きな人』じゃないと食わせてくれないんだろ? だから……」
涙を散らしながら訴える宍戸は、悪魔のくせに人間の戯言を律義に守ろうとしていた。
「だから我慢してくれてるんですか?」
「我慢、してる」
「どうして?」
「おまえが、いやだって言うから。おまえが嫌がることは、俺は、したくねぇ。でも、はら、へったよぅ」
うなだれて涙を流す宍戸の尻尾が力なくシーツを叩き、そして動かなくなった。
魔力が弱まっているのだ。
このまま魔界に帰ったら二度と人間界には降りてこられなくなるかもしれない。
もうあとがない状況だというのに、宍戸は鳳の言葉を無視して強行に及ぶことを頑なに良しとしなかった。
鳳は宍戸を抱きしめずにはいられなかった。
いとしさにどうにかなってしまいそうな衝動を抑え込み、鳳は出来る限りの優しさで弱る宍戸の体を包み込んだ。
飢餓状態にあっても人間の意思を尊重しようとする悪魔なんて聞いたことがない。
鳳は宍戸にすべてを捧げることを心に決めた。
飢えたサキュバスが元気を取り戻すために、人間の精気をどれほど必要とするのかは知らない。
しかし、宍戸が欲してくれるのならば、命が枯れるまで精気を吸い取られても構わないと思った。
こんな状態になるまで鳳を求め続けてくれたのだ。
その欲望に、鳳は持てるすべてで応えたかった。
「俺、宍戸さんのことが、好きです」
湖畔のように静かに凪いだ心で、鳳は宍戸の耳元に囁いた。
人間の感情を理解していないであろう宍戸に、少しでも自分の想いが届きますようにと願いながら。
「俺もやっとわかったんです。好きってね、難しいことでも大それたことでもなかったんです。宍戸さんとたくさん話したでしょ? 俺にはそれだけで十分理由になっていたんです。宍戸さんが一生懸命俺のことをわかろうとしてくれて、すごく嬉しかった。きっと、あのときから宍戸さんのことを好きになっていたんだと思います。会えなくなって、すごく寂しかった。俺からは宍戸さんに会いに行くことが出来なかったから。だから今日会いに来てくれて、とっても嬉しいんです。サキュバスの宍戸さんが急に俺に乗っかってくるのはやっぱりちょっとびっくりするけれど、でも宍戸さんになら食べられちゃってもいいんです。俺、宍戸さんのことが好きだから」
鳳の言葉は宍戸の涙を止めた。
おそるおそる、宍戸の腕が鳳の背を抱く。
その手の温かさを、鳳はまぶたを閉じて受け入れた。
「俺のことが、好き……?」
「はい。宍戸さんのことが、好きです」
「でも、俺は『好き』がなんなのか、わからない」
宍戸の声が揺れる。
また涙しては欲しくなくて、鳳は宍戸の翼を痛めないように震える背を撫でた。
「いろんな『好き』があると思うんですけど、俺の『好き』はね、宍戸さんにこうやって触れて、あったかいなぁ、いいにおいだなぁ、生きてるなぁって、ゆっくり感じて、宍戸さんのこと好きだなぁって、いっぱい伝えたい気持ちになるってことなんです。でも触れられなくても、違う世界で生きていても、宍戸さんのことを思い出すと好きな気持ちでいっぱいになって、会いたいなぁって思ってしまうんですよ。宍戸さんが『好き』って気持ちをわからなかったとしても、そんなの関係なく俺は宍戸さんのことを好きになっちゃうんです。……えっと、わがままを言えば、宍戸さんにもそうやって、俺のことを好きって思ってもらえたらいいなぁって、ちょっぴり思っちゃいますけど」
えへへ、と照れ隠しに笑って見せる鳳の声がじんわりと染み込んでくるようだ。
感じたことのないぬくもりが宍戸を包んだ。
鳳の肩に頭を預け頬をすり寄せれば、自分とは違う生き物の鼓動が伝わってくる。
「長太郎は、あったかい」
鳳の背を、ぎゅっと抱きしめる。
一糸まとわぬ肌は鳳の体温にぬくめられた。
「いい、におい」
首筋に鼻先をあてゆっくり息を吸い込めば、鳳の匂いが鼻腔をかすめ宍戸を安堵させる。
人間の匂いなど食欲をそそるか否かでしか判断をしたことがなかった宍戸は、安らぎを得ている自分に戸惑った。
肌を合わせる距離まで近づいているのに、捕食したい欲求よりもこのまま鳳を抱きしめていたい気持ちの方が強いのはなぜだろう。
宍戸は鳳が着たままでいるパジャマのボタンに指を掛けた。
一つ一つ、丁寧に外していく。
はだけさせ肩から落とすと、再び鳳を抱きしめ胸を合わせた。
直接触れた肌が熱い。
ぴったりくっついた胸から、とくり、とくり、伝わる鼓動がまたもや宍戸の心を平らかにした。
「いきてる」
宍戸が呟く。
鳳は言っていた。
あったかくて、いいにおいがして、生きていて、あとはなんだったか。
好きだという感情は触れて知るものなのだろうか。
鳳は、会えなくても、思い出すだけで好きな気持ちが溢れるとも言っていた。
触れなければ精気は得られない。
しかし宍戸にはもう、鳳の精気だけがここにいる理由ではないことがわかり始めていた。
『優しくしたいとか、笑った顔が見たいとか、その人のことを考えるとドキドキしてあったかい気持ちになるとか』
宍戸の脳裏に、いつかの鳳の言葉がこだました。
好きになると、笑った顔が見たくなるらしい。
打ちひしがれ涙を流す姿ではなくて、楽しそうに声を転がせて破顔する姿。
ごめんなさいと涙した鳳と、夜な夜な語らい合いながら微笑んだ鳳は、どちらが見たい姿だっただろうか。
宍戸は腕をゆるめ、鳳と向き合った。
鳳の瞳が躊躇いなく宍戸の瞳を見つめる。
そして宍戸の頬に流れた涙のあとを指先で拭った鳳は、慈しむように顔をほころばせた。
「あ……」
すとん、と宍戸の胸に落ちたのは、生まれて初めて感じるあたたかい感情だった。
まるで、子どものころ初めて空を飛んだ時に感じたような高揚感。
胸が高鳴って、耳元に心臓が移動してきたかのよう。
なんてことない笑顔ひとつで、宍戸は揺さぶられ動揺した。
弱っていたはずの尻尾の先が、落ち着きなくシーツの上を動き回っている。
体が瞳の術をかけられたかのように硬直してうまく動かせない。
こんなに不自由なことがあってたまるかと、宍戸は憤慨しようとしたが、なおも嬉しそうに頬を染めて微笑む鳳から目を離すことが出来なかった。
ずっと見ていたい。そして、いつまでもそばで微笑みかけていてほしい。
鳳の涙はもう見たくない。
そのためだったら、宍戸はいくらでも優しくなれる気がした。
これが、人を好きになるということなのだろうか。
人間である鳳が大切にする感情を、悪魔である宍戸にも同じく感じることが出来ているのか、確信は持てない。
だが、ふわふわと覚束ない心を繋ぎとめるために言葉が必要だとするならば、これ以外、宍戸は伝えられる言葉を知らなかった。
「俺、長太郎のこと……好きだ」
刹那、青白い炎が宍戸の翼と尻尾を覆った。
炎は瞬く間に燃え広がっていく。
「宍戸さん! 火が!」
「え? うわっ! やめろ!」
急いで消さなければと意を決して触れた炎は熱くない。
むしろ氷のように冷たく、鳳は困惑した。
体の一部が燃えているというのに、当の本人はまったく痛みを感じていないようだ。
バサバサと翼を羽ばたかせたり尻尾を叩きつけたりするも効果はなく、むしろ炎の勢いは増すばかり。
冷たい炎は紙くずを灰にするように容赦なく宍戸の翼と尻尾を燃やしていき、数秒の内に跡形もなく消し去ってしまった。
それは、宍戸からサキュバスの力が失われたことを意味していた。
「うそだろ? 俺の翼が……尻尾が……なんで……人間に恋をしたらいけないって、こういうことなのかよ」
「ど、どういうことです?」
「サキュバスが人間に恋をしたら力を失うって言い伝えがあるんだ。そんなの迷信だと思ってた。まさか本当だったなんて……どうすんだよ……もう飛べないし誘惑もできない。つーか、あっちの世界に戻れねぇじゃん!」
頭を抱えて青ざめる宍戸を抱き寄せ、鳳は艶やかな黒髪を指で梳いた。
見つめる宍戸の瞳は黒く、金色の輝きを失ってもなお鳳をとらえて離さない。
「魔力が無くたって、宍戸さんはこんなに魅力的ですよ?」
「あのなぁ、そういう話をしてんじゃねぇんだよ。帰れねぇって話をだな」
「だったらここに居ればいいじゃないですか」
「はぁ?」
「俺と一緒に暮らせばいいですよ。うん、それがいい。サキュバスじゃなくなったってことは、もう人間の精気が無くても生きていけるんでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「俺が毎日ごはんを作ってあげます。今は下手くそだけど、練習すればおいしく作れるようになるはずです」
「おいおい、待ってくれ」
「こっちの世界でわからないことは全部教えます。多分そっちの世界とあまり変わりませんよ」
「んなわけねぇだろ。ちょっと落ち着け」
「俺、大学出たら一生懸命働きます。宍戸さんに一生苦労はさせませんから」
「待て。一生って言ったか、おまえ」
「大丈夫。きっと毎日楽しいですよ。俺と、この世界で生きていきましょう!」
一層嬉しそうに破顔して、鳳は宍戸に口づけた。
わきあがる喜びを抑えきれないと、何度も啄むように唇を重ねる。
ついには力負けした宍戸を組み伏せて、檻に閉じ込めるように覆いかぶさった。
「俺のこと、好きになってくれて嬉しい」
頬に、まぶたに、鳳はキスを降らせていく。
悪魔だった宍戸と想いを通わせることが出来ただけでも奇跡に近いのに、その力を失った代償で人間界に留まることになるだなんて誰が想像できただろうか。
鳳は、宍戸が他の人間をターゲットにしようとしたと話した時に感じたどす黒い感情を忘れてはいなかった。
サキュバスでなくなったのなら、もう複数の人間と性交して栄養を得る必要もない。
自分一人だけに愛され生きていけば、それでいいじゃないか。
傲慢なほどの独占欲。宍戸よりも鳳の方が、悪魔にふさわしい素質を持っているのかもしれなかった。
宍戸は見上げた鳳の笑みに身震いし、脳髄が痺れる心地だった。
畏怖ではない。
どれもこれも、恋なのだ。
繊細で複雑、ときに希望を失い、身を焦がす。
人も悪魔も恋の前では等しく無力で、珍妙不条理、変化し心を満たそうと藻掻き続けるのだ。
「そうか、これが」
宍戸は鳳の背に腕を回し引き寄せた。
触れ合う唇は熱く、差し込まれた舌はもっと熱い。
サキュバスの力は失ったはずなのに流れ込んでくる唾液は甘く感じられ、宍戸は夢中で舌を絡めては吸いついた。
鳳の腰を太ももで挟んでスリスリと肌を擦らせる。
しっとりと汗ばむ肌は吸いつくようで、鳳の官能を刺激し下腹を熱くさせた。
「っ、宍戸さんっ」
「どぉした?」
「知ってるでしょ。俺、初めてなんですから……」
「手加減しろって? なに言ってんだ。本当だったらもっとすごかったんだぜ? おまえのせいで、もう本気出してやれねぇけどな」
「今でも十分、すごいですよ」
腰に足を絡めて鳳を引き寄せ、凶暴なまでに張り詰めた怒張を宍戸のペニスで撫で上げた。
宍戸の亀頭が甘えるように鳳の裏筋をなぞる。
淫らに腰をくねらせて挑発してくる宍戸に、鳳は目の前がくらくらした。
「そんな風に、擦り合わせるなんてっ」
「長太郎のちんこは可愛いなぁ。硬くて、まっすぐで、俺の中でたっくさん暴れてくれるんだろうなぁ」
「あ、暴れる!?」
「ここのな、カリんところで俺の内側を抉って、それから一番奥にいっぱいキスするんだぞ? あはっ、早く入りたいって、先っぽが泣いてるぜ。かわいそうに、すぐ気持ちよくしてやるからな? なぁ、長太郎。出来るよな? おまえはしっかりした子だもんな?」
宍戸の指先が鳳の肌をゆっくりとなぞっていく。
くすぐったさに似た快感にたまらずブルッと身震いした鳳を、宍戸は目を細めて見つめていた。
うっすら開かれ弧を描く唇も、朱色に染まった目元も、鳳をあやしているようでその実、試している。
鳳は眼下で両足を広げる宍戸に釘付けになりながら頭の片隅で憂いた。
翻弄されることが気持ちいいだなんて知らなかった、癖になったらどうしよう、と。
「力がなくなる前に濡れててよかった」
「?」
「こっちの話。ほら、ここに入れるんだ。わかるよな?」
ぬらぬらと淫靡に艶めく蜜壺が鳳を待ち構えている。
敏感に張りつめた性器でその中に触れたら、二度と戻れなくなりそうだ。
「びびってんのか?」
「そういうわけじゃ」
「焦らすのもいいけど、早く長太郎に会いたいって、ココ、寂しがってる」
尻たぶを掴んだ宍戸が秘部を拡げて見せつける。
ヒクヒクと収縮する蜜壺からは愛液がとろりと溢れ、尾てい骨を伝った。
サキュバスではなくなった宍戸の膣はひとりでには濡れないが、極上の性器であることに変わりはない。
誘われるまま亀頭を粘膜に口づけさせた鳳が腰を進めれば、肉壁が陰茎を味わいつくそうと蠢いた。
「うあっ、なに、これっ、ししどさ、なか、すごいぃ」
「あぁ、思ったとおりだ、っ、ちょうたろう、おまえ……あぁっ!」
まだ半分ほどしか埋め込まれていないというのに、宍戸は背を反らせてペニスから白濁を吐き出した。
「んあっ、や、すご、もう♡」
きゅーっときつく鳳を締め付けて絶頂する宍戸の喉からは、隠すつもりのない喘ぎ声がとめどなく溢れてくる。
鳳は苦しいほどの快感に一旦腰を引こうとした。
しかし腰に絡む宍戸の足がそれを許さない。
舌足らずに哀願する宍戸にとらえられ、鳳はゆっくり律動し始めた。
「だめ、っ、もっと、もっと擦って♡ ちょうたろぉ♡ 俺のナカ、もっとぉ♡」
「でも、俺も、もうっ」
「イッて♡ いっぱいイッていいから、イッても擦って♡」
蕩けた瞳で無茶苦茶なことを言う。
達しても、どれだけ胎内を精液で濡らしても、かまわず腰を振れというのだ。
なんて鬼畜なことを要求するのだろう。
だが髄まで魅せられている鳳には、宍戸の欲望を満たすことが、すなわち自身の欲望を満たすことだった。
腰を打ち付けた鳳の性器が、勢いよく精液を吐き出した。
すぐに硬さを取り戻すと息つく暇もなく律動を再開し、宍戸の腸壁に白濁を塗りこめていく。
「宍戸さんの、なか、たっくさん、汚してあげますよっ」
「うんっ♡ うんっ♡ おなかいっぱい、ちょうたろうを食わせて♡」
「もう、サキュバスじゃないでしょ!」
「や、ぁっ、さきゅばすじゃなくたって、ちょうたろうが、いちばん、おいひぃ♡」
「一番? 宍戸さんはこれからもずっと、っ、二番も三番も! 一生、知らなくていいんですよ!」
「いい、いいっ! ちょうたろうだけで、いいっ♡ だからもっと♡ あっ、そこぉ♡ ゴリゴリって、して♡ んっ、ん、うぅっ♡ あっ、また、イくぅ、っ♡」
「くぅっ……、宍戸さん、きついよ……もっとゆるめて……?」
「あっ、っ、むりぃ、勝手に、きゅんきゅんって、するぅ♡」
「っ……! もう、知らないですからね、っ」
収縮を繰り返す腸壁に捩じ込むようにして、鳳は怒張を宍戸に繰り返し打ち付けた。
肌がぶつかり合うたびに、結合部では愛液と漏れ出た精液が混じって白く泡立つ。
「あーっ♡ やん、すき、すきぃ♡ もっと、おく、もっと……っ♡ あっは♡ すごい、ちょおたろぉの、とどいたぁ♡」
「なに、これ、うあっ、っ」
「や、とまっちゃ、やぁだ♡ きもちぃところ、いっぱい、きすして♡」
「でも、ここっ、ぎゅって、っ、んぅっ」
宍戸の奥深く、縊れた子宮口を穿った鳳はカリ首ごと飲み込まれ、動くたびに強く吸いつかれていた。
胎内で愛液と精液をカクテルする淫猥な水音がぢゅぽぢゅぽと鳴る。
そのたびに宍戸は絶頂を重ねた。
もともとそれほど精巣が発達していないサキュバスには、もう吐き出す精液もない。
あとはひたすら胎内で鳳を貪り、気を失うまで果て続けるのみだ。
「あーっ♡ んあっ♡ もう、ずっと♡ イッてるのに♡ まだ、イッちゃうぅ、んぅっ♡」
「ししどさんの、いうこと、ちゃんと聞けましたよっ」
「えらい♡ えらいなぁ、ちょうたろ♡ やんっ♡ っ、っ~~♡」
「また、イッちゃってる。きもちいい? 俺のちんちん、きもちいい?」
「きもちい♡ ちょうたろのちんちん、きもちくて、すきぃ♡」
「ちんちんだけ?」
「ううん♡ あんっ、んっ♡ ちょうたろうが、すき♡」
「俺も、宍戸さんのこと、っ、だいすきっ。だから、ずっと、そばにいてくれますか?」
「うんっ♡ いる、ここに、ずっといる♡ んあっ、はっ、つよいぃ♡」
「嬉しいから、もっと、きもちよくしてあげる、ねっ」
「あぁっ! っ、っ! すご、おくぅ♡ あつい♡ あぁっ! もう、あぁぁっ♡」
「何回出しちゃったか、もう、わかんないや。でも、ししどさんも、いっぱいイッちゃったから、いいよね、っ?」
「いいっ! いいぃっ♡ こわれちゃっても、いいからぁ♡」
「じゃあ、一緒に、こわれちゃいましょうね」
「~~~っ♡」
汗も唾液も精液も愛液も、すべてがない交ぜになって二人の境界が溶け合っていく。
朦朧とする意識を覚醒させるように、宍戸は鳳を、鳳は宍戸を侵食した。
空が白み始めるまで、何度絶頂に導き、導かれたのだろう。
先に尽き果てたのは鳳だった。倒れこんできた鳳を抱きしめて深く深呼吸をすれば、精気を吸収できなくなった宍戸の蕾からは白濁がどろりと漏れ出てシーツを濡らした。
「好きになったら、だめだったのに」
その声に呼応するように、無意識のはずの鳳が宍戸の手を強く握った。
寝息を立てながら、絶対に離すまいと宍戸を繋ぎとめている。
「ばかだな。もうどこにも、行けやしねぇのに」
ごろんと仰向けに寝かせた鳳の胸に頬を寄せて、宍戸の目からは一筋だけ涙が流れた。
「あったかい。いいにおい。生きてる」
とくんとくん。鳳の鼓動が宍戸の眠気を誘う。
鳳に寄り添い、体を抱きしめて、宍戸はまぶたを閉じた。
禁じられた恋をしたサキュバスはどうなってしまったのか。
翼も尻尾も魔力も失い、故郷に帰る術を失ったサキュバスに生き抜く力は残されていたのか。
魔界でついぞ語り継がれることのない物語は、人間界の片隅、欲望渦巻く繁華街から少し離れた住宅街で紡ぎ続けられる。
二人の生活が順風満帆なものだったのか、はたまた波乱に満ちたものだったのか。
それは宍戸と鳳のみが知る。
ただ一つ確かなのは、二人が道を違えることはなかったということだけだ。
月が明るい真夜中。
寝支度を整えたら施錠はしっかりと。眠りは深いほうがいい。
それでも翌朝体が重いと感じたら……。
今宵もまた、良い夢を。